第8話 最愛の人の、忘れる事が出来ない大切な人(7)

「じゃあ、マンションまで送るよ」


 食事が終わり、店を出ると拓馬は当たり前のように言った。


「えっ、いいよ、ここからだと逆方向だし、私、定期も持ってるし」

「駄目だよ。こんな遅い時間に女性を一人で帰すなんて、俺のポリシーに反する」

「仕方ないな。拓ちゃんのポリシーを守る為に協力しますか」

「そうそう、お願いしますよ」


 言葉では仕方なくと言ったが、明菜は内心嬉しかった。好きな人に大事にされて、今だけは恋人気分を味わえるから。



 拓馬に送って貰った幸せな時間が終わり、自宅マンションに戻った明菜は、冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気に飲み干した。冷えたビールが喉を潤したが、気持ちは深く沈んで行く。冷蔵庫からもう一缶取り出してリビングに向かい、ローソファに倒れ込むように腰を下ろした。


「何を喜んでんだか……」


 缶ビールを開けて、半分ほど胃に流し込む。

 どうしようもない怒りがこみ上げてきて、目の前のテーブルをドンと握った拳で叩いた。

 拓馬の車に乗って、つかの間の恋人気分に酔っていた自分に腹が立つ。


ーー私はピエロだ。好きな気持ちを隠し、笑顔の仮面を張り付けたピエロだ。


 明菜は哀れで、滑稽な自分が可笑しくなり笑いだす。だが、しばらく続いていた笑い声は、やがてすすり泣きに変わる。


「助けて……このままじゃ私は壊れてしまう……助けて拓ちゃん……」


 明菜はテーブルに顔を伏せ泣き出した。

 拓馬と会った後の明菜はいつもこんな様子で苦しんでいる。彼女の彩と拓馬への想いは、崩壊するギリギリ限界まで達していた。



 明菜のマンションまで送って行ったあと、拓馬は彩の待つ二人のマンションへと車を走らせている。明菜と別れてすぐ、(今から帰る)とラインを送った。時刻は午後十時を回ったところ。彩も仕事が終わり、マンションに帰っていると返事があった。


――早く彩の顔を見たい。会った瞬間に抱き締めて指輪を渡そう。彩もきっと喜んでくれるさ。過去の存在と張り合うなんて愚かな事だ。これから二人で幸せな時間を一緒に過ごしていけば、今のモヤモヤした気持ちなんてきっと笑い話にできる。


 拓馬はずっと考えたあげく、そう気持ちを納得させていた。

 拓馬は今、マンションまであと五分程の片側一車線道路を走っている。幹線道路から入った道で、この時刻はもう車もまばらだ。さすがに寝不足の体は疲れていて、拓馬は注意散漫になっていた。

 その時、拓馬は「リーン」という鈴の音のような音と不自然な角度から小さな光を感じ、意識の集中力が戻る。光と音の発生元を探すと、バックミラーに吊り下げていた男の子の人形から出ていた。


――えっ? 人形から……。


 人形自体は普通の陶器で出来ており、音や光を発生させる仕掛けなどない。だが、そこにある男の子の人形は確かに音と光を発していた。


――なぜこんな事に……。


 不思議に思って眠気が飛んだ拓馬は、ふと、対向車に違和感を覚えた。少し蛇行しているように見えたからだ。

 拓馬はそうスピードを出してはいない。制限速度の少し上、時速四十五キロ程の常識の範囲だった。だが、対向車はあっと言う間に近付いてくる。対向車が異常な状態だと確信した時には、相手はセンターラインをオーバーして目の前に迫っていた。

 急ブレーキを踏み、慌ててハンドルを切ったが、対向車はそのままのスピードで拓馬の車に突っ込んできた。激しい衝撃が拓馬を襲い、ガラスが飛び散りエアバッグが飛び出す。注意力がしっかりとしていたお陰で運転席への直撃は免れたが、車が大破する大きな事故となった。

 衝突の瞬間から拓馬が意識を失うまでのほんの一瞬、男の子の人形は一層強く輝き、その光が拓馬の体を覆った。


――絶対に死んではいけない。俺まで事故で死んだら、彩は二度と立ち直れない程深く傷付いてしまう。


 拓馬は光を意識する余裕もなく、念じるようにそう強く思い続けていた。

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