第3話 最愛の人の、忘れる事が出来ない大切な人(2)

――大切な人? 元カレ? まさか浮気か? いや、彩に限って浮気は考えられない。俺達は幸せだし、そんな様子は微塵も感じられない……。

――どう言う事なんだ?


 考えてもいなかった彩の告白で、拓馬は混乱してうろたえた。


「大切な人って、男? もしかして、そいつの事が好きだって事?」


 拓馬の質問に彩は無言で頷いた。その頷きが、男と言う事か、好きだと言う事かわからなかったが、恐らくどちらもそうなのだろうと拓馬は感じた。


「なに? そいつと二股掛けていたって訳? 俺よりそいつの事が好きだから結婚は出来ないって事なのか?」


 興奮した拓馬が続けざまに問いただす。


「違うの。二股じゃないし、どちらかの方が好きとかじゃないの。拓ちゃんもその人も同じように、これ以上ないくらい大切の人なの。それにもうその人は……」


 辛そうだった彩の表情が一層険しくなる。


「……高校時代に事故で死んでいるの……」


 彩は目を伏せ、絞り出すような声で言った。


「……死んでいる……大切な人って、事故で死んだ元カレって事なのか?」


 拓馬の質問に彩は無言で頷く。


「俺はその男の代わりって事か?」

「違う! それは違うの。拓ちゃんは、私にとって誰にも代えられない大切な人。でも、その人も心の中から消せない大切な人なの」


――俺も死んだ元カレも同じくらい大切な人……。


 拓馬は「大切な人」と言う事実より、「同じくらい」と言う事実が、大き過ぎて受け入れられなかった。


「俺にどうして欲しいの?」


 彩はどう話せば良いかわからず、言葉がすぐに出て来ない。


「……私はあの人の事を忘れる事が出来ない……こんな女だけど拓ちゃんは結婚してくれる?」


 少し間を置き、彩は途切れ途切れにゆっくり話す。


「俺にそいつの事を認めろって事か? 自分の嫁さんが他の男を好きで忘れられないって事を認めないといけないのか?」

「それは……」


 彩は言葉に詰まった。拓馬の言う通りなのだが、改めて言葉にすると、自分勝手過ぎると思ったのだ。


「もし、嫌だと言ったら、彩は俺と別れるつもりなのか? そいつを忘れる事は出来ないけど、俺と別れるのは平気なのか?」


 その言葉を聞き、彩は下を向き、ううっ……と声を殺して泣き出してしまった。

 拓馬は指輪をポケットにしまうと、エンジンキーを回して、車を発進させた。

 二人とも無言のまま車は山道を下って行く。車内では二人の幸せな思い出が沢山刻み込まれているRCの曲だけが、いつもと同じようにステレオから流れていた。

 結局、二人の間に一言も会話が無いまま同棲している賃貸マンションまで帰り着いた。気まずい雰囲気のまま二人は部屋に入る。同棲する為に借りた2DKのマンション。幸せの象徴だったこの部屋が、今は虚しく拓馬は感じた。

 涙で崩れた顔を見せたく無かったのか、「先にシャワーを浴びるね」と言って、彩は脱衣所に向かった。一人残された拓馬はダイニングテーブルの椅子にコートを掛け、コーヒーを淹れる為にお湯を沸かす。とにかく落ち着いて気持ちを整理したかったのだ。

 お湯が沸き、拓馬はコーヒーを淹れたものの、一口も飲まずにいろいろ考えていた。


――単純に考えれば、元カレは死んでいるのだし、俺の事を大切な人で大好きだと言ってくれているのだから、何の問題もない筈だ。全てを呑み込んで彩を愛すればきっと幸せになれる。だが、死んだ元カレも俺と同じように、これ以上ないくらい大切な人だと言っていた。元カレは死んでいるのだから、その評価は変わりようがない。これから結婚生活が始まれば、俺の嫌な面に彩が気付くかも知れない。その時に、俺は元カレに勝てるのだろうか? 死んでしまった最高に大切な人とずっと戦い勝ち続けられるのだろうか?


 そう思うと拓馬は怖かった。これ以上は考えられないくらいの幸せな今でも越えられない、元カレの存在が怖かった。

 拓馬は何をどうすれば良いのかわからないままに、テーブルの上に置かれたコーヒーカップを無言で眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る