第4章 その3
スノードロップは、森を悠然と歩いていた。
『旋誘香』などなくても、獲物を追跡する術はいくらでもある。三人の人間が転がるように逃げて行けば、枝は折れ、落ち葉は舞い、足跡は雄弁に相手の位置を知らせてくれる。
《
アンデッドとして復活してから、ほとんど初めての戦闘だった。しかし、まるで昨日まで冒険者として一線を張っていたように、頭も身体も動いてくれる。《
ハッシュはやはりすごいやつだ。左腕が茨に囚われているというのに、それを自分の力として使いこなし、こちらに食らいついている。たった三人で、涙ぐましいことである。
だから、余計に彼が欲しくなる。思えば、一年前に一度死ぬ前から、そんな感情を頭のどこかに灯していたような気がする。今のこの死んだ脳では、その時の気持ちまでは思い出せない。だから、これはあくまで今の自分の想像だ。
自分はきっと彼のことが好きだったのだろう。そういうことにしておいたほうが面白い。そして今は、彼を自分と同じ存在にしたくて仕方がない。
ナルはどうしよう。彼女のことも好きだ。けれども、同時にハッシュと同じような扱いはできないと直感する自分がいる。
『
リーザとかいう金髪の子はどうでもいい。どちらにしろ呪符が足りないし、さくっと殺しておこう。
ハッシュの狙いは、十中八九『
一度死んでいるせいか、恐怖心というものがまったく湧かない。ただただ、ハッシュと戦えていることが楽しい。自分はこんなに好戦的だったろうか。けれども、春の冷たい風も、梢の揺れる音も、雲の隙間からそそぐ柔らかな光も、すべてがたまらなく愉快だ。
スノードロップが足を止めた。前方に、木々を縫うように蔦が入り乱れている。
茨の園ができあがっていた。ハッシュの仕業に違いない。
しかし、罠のつもりなら、こんなに堂々としていては意味がない。スノードロップは『炎環の呪符』を取り出し、『怜火の油』を垂らしてから堂々と茨へ近づいていった。
八歩進んだところで、茨がスノードロップを襲った。しかし、彼女は春の蝶のように身を翻らせ、傍らの木の枝にひらりと舞い降りた。その時には、すでに呪符が茨に貼り付いている。
爆発的な勢いで、炎が茨を舐めた。縦横無尽に張り巡らされていた茨は、見えない巨人に食らい尽くされるように、みるみるうちに焼け落ちていく。
内心で少し後悔するスノードロップ。予想よりも火の回りが早い。間違って焼け死にでもしてもらったら、遺体の復元が困難になってしまう。
手持ちの道具で消火できるかと思案していたところ、炎の揺らめきの向こうから、見覚えのある長身が近づいてきていた。
スノードロップは笑顔になって枝から飛び降り、話しかける。
「やあ、ハッシュ。よかった、まだ生きてて」
ハッシュの全身は、『カドラの霊水』によって守られているようだった。そうだろう。こんな炎に巻かれて死んでしまうような男ではない。
「ナルはまだ歩けない。殺すつもりか」
淡々と質問するハッシュ。
「いやいや、ちょっと火の勢いが強くなりすぎただけだよ。でも、君がここにいるってことは、安全な場所に隠れてるんだろう? 今のうちに、隠れ場所を教えてくれないか? 蘇生の直後は、記憶が混濁して思い出せないかもしれないからさ」
「教える必要はないし、いらん心配だ。俺は死なない」
「うん。でもさ、一回試してみたら意見も変わるかもよ? ほら、その左腕だって、なんなら普通の腕にすげ替えてもいいしさ。切り落とそうとしても抵抗されて駄目だったんだろ? 万夫不当の《
「……その腕はどこから持ってくるつもりだ」
「適当に体格の似てる奴を攫ってくるから大丈夫だよ。ハッシュは何もしなくていい。全部私がしてあげるから」
ハッシュは少しだけ沈黙し、スノードロップの足元を見た。一年前は折れそうに細い足首をしていたそれが、今は《
「おまえは、『
「そこはわかんないね。さっきも言ったけど、私は私であることを知ってる。君から見て別人みたいに見えるかもしれないけど、ずっと前から私の内心はこんなだったのかもしれないよ? だから、そこを問答しても平行線だね」
するするとハッシュの左手首から茨が成長している。ハッシュの周囲を囲むように伸びるそれは、炎の照り返しを受けて生贄の首を刎ねる儀礼刀のようだった。
「おいでよハッシュ。私、こんなに戦うのが楽しいって思えたのは初めてなんだ。最初の相手が君だってのも、すごく嬉しい。もっと遊ぼうよ」
「いや――」
ハッシュの右手に、小さな球が握られていた。
「もう終わる」
頭上に球を投げた。それは辺りの木々の頂点程度まで上昇すると、乾いた破裂音と閃光を生じて消えた。『サリクの閃火』と呼ばれる、逃走やこけおどしに使う道具だ。
スノードロップは、サリクの閃火が手に握られていた時からその正体に気づいていた。だから、破裂してもまったく動じなかったし、目を守るためにあらかじめ自分の手で庇を作ってすらいた。
一連の行動は一切脅威を覚えるものではなかった。
だから、再び目を開けた時、その光景が現実であることを疑うしかなかった。
「え…………?」
自分がいた。
正確に言えば、スノードロップ自身の姿が、目の前の森のそこかしこに、大小高低節操なく、まるで歪んだ鏡を無数に立てているかのように無数に表れていた。
見慣れた白銀の髪が燃え、白い肌が炎に焼けている自分がいた。
それを無感情に眺めている自分が、焼け落ちてきた木の幹に押し潰された。
その木に引っかかっていた自分が、上半身だけになって『自分』の足元まで飛んできた。
「なんだ、これ……」
幻覚だ。幻を見せる魔法もないわけではない。いつ盛られたかわからないが、薬を吸わされたのかもしれない。
頭の冷静な部分はそう告げるが、もう一部分は、どうしようもない焦燥をとっくに機能していない心臓に伝えてくる。
内臓が氷漬けになったかのようなこの感覚の名前を、スノードロップは思い出せない。
それはきっと、恐怖と呼ばれるべきものだった。
目の前に自分の姿が近づいていることに、気づけなかった。
ねじれ、絡み合うそのおぞましい輪の中から、誰かの手が伸び、『自分』に触れた。
「『
膝が折れた。意志とは無関係に身体の力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
そう。『私』の身体が。
かろうじて見下ろすと、触れられた鳩尾付近が、さらさらと灰のように崩壊していっていた。
「スノードロップさん」
見上げると、視界の中に金髪の小柄な娘がいた。
「どうして……」
かすれた声が唇から漏れる。
リーザは、自分の左手指を示すように持ち上げた。
そこには、白燈石の指輪が嵌められている。
理解が追いつかない。混乱しているスノードロップに、リーザが静かに言った。
「白燈石を身につけた人間は、脳機能を共有する……すごいことだと思います。でも、『白燈石の呪い』は、本当に『脳を貸し与えた』から起きるものなんでしょうか」
何を言っているのか。正常な脳の一部を他人に明け渡すのだから、稀にではあっても支障が起きるのは当然ではないか。私はそのリソースを譲り受けて思考し行動している。もともと貸し与える脳機能が存在しないアンデッドには、呪いが発動するメカニズム自体が適用されない。まさに夢の道具だ。
「『貸し与える』だけじゃなくて、『借り受ける』ことで、支障が出ることもあるんじゃないでしょうか。……たとえば、
リーザが長い前髪をゆっくりとかき上げ、その白い額を晒した。
親指の爪ほどの大きさの、黒い種子のようなもの《・・・・・・・・・・》が、その額のやや右側にめり込んでいる。
あれはなんだ。いや確かに自分は知っている。あの時、ハッシュの左手に根を下ろした、ドリアードの種と同じ――
「わたしも、あの時、種を受けたんです。先生と違って、頭の
緑色の瞳が、まっすぐにスノードロップを見ていた。
「……ドリアードは、人間に種を植え付けることで単性生殖を行うが、その実態は分裂や増殖に近い……おまえが、いつか教えてくれたことだ」
『私』の隙間から、ハッシュが顔を覗かせて言った。
「ドリアードの本体と、種から生じた新しい株は、本質的には同一の
「わたしの場合は、脳の一部まで根を伸ばされたところで、『
「それが……なんだっていうんだ」
「わたしには、先生の手から生える茨が、『わたし自身の姿』に見えます」
「……⁉」
「たぶん、この子にとっては、同じドリアードから生じた種は、自分と同じなんだと思います。そして、脳で融合しているわたし自身も。だから、わたしの目には、ドリアードを介した景色が見えていて、先生の茨は、わたし自身の姿に見えるんです」
「そして、白燈石は、装備者の脳を共有する……リーザの『そう見える』という感覚も、おまえは共有している」
『私』が燃え落ちている。めらめらと暴力的に燃え盛る火炎が、少女の姿をした茨を森ごときれいに焼け尽くしていく。
『私』の姿が消えた。そこにあるのは、ただの森林火災でしかなかった。
視線を動かすと、リーザが指輪を外していた。それを握り込んで、どこか悲しそうに表情を歪めている。
すでに首が動かなくなっていることに気づいた。目線がだいぶ低くなっている。意外なほど遠くに自分の脚――いや、ロメリアの引き締まった脚が転がっていて、すぐに崩れて塵芥と化した。
元の持ち主にくっついていた時から考えると、ずいぶん血色が悪くなっていた。自分にくっついていた時は、そんなことは気にも留めなかったのに。
「スノー」
ハッシュがしゃがみ込んで、いつか見たような苦しそうな顔で言った。
「墓は、アスタたちの隣に作る」
スノードロップは内心でせせら笑った。この、初春の粉雪よりも軽い塵を集めて埋葬してくれるとでも言うのだろうか。ご苦労なことだ。
「ばぁか……」
消え入りそうな悪態は、かろうじて届いたようだった。もはや目も見えない。数秒後には、私はこの世界から完全に消えるだろう。
意識を手放す直前に、まるで『
スノードロップは、その呪いを口にした。
「好きだよ……」
息を呑む音は聞こえない。けれども、衣擦れの気配だけは伝わった。
スノードロップは、それで満足だった。
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