第2章 その7
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ナルは目覚めるとカーテンを開き、少しの間外の景色を眺めた。山の稜線から朝日が顔を出しつつある。あの山を超えて数日歩いた先が、タックベルだ。
昨晩はずいぶんと長く昔話をしてしまった。リーザにしては珍しく、真剣に話を聞いていたが、適度に相槌を打ち、急かすこともしない意外といい聞き役だった。そのおかげで、ナルは少しだけ気分が晴れている。
ほのかに差し込む朝日に照らされて、まだ寝こけているリーザがちょっと身じろぎした。なぜかベッドではなく床に毛布を敷いてそこにうずくまっている。このほうが落ち着くらしい。金糸の髪と白磁の肌、小作りな鼻と口は、黙って眠っていればやはり可愛らしい。
まさかとは思うが、ハッシュがリーザを厚遇するのは、この容姿があってのことなのだろうか。一瞬だけ考え、その荒唐無稽さに自分で即座に否定した。一年半の付き合いになるが、あの真面目を絵に描いたような男にはあまりに似つかわしくない。
つまらない考えを頭を振って追い出し、身支度を整え、今日から山歩きだとリュックの中の道具を点検していると、とんでもないことに気づいた。
「あれ? え?」
昨日買ったばかりの、あの白燈石の指輪がない。
間違いなくリュックの内ポケットに小箱ごと保管していたはずだ。それが、今は影も形もなくなってしまっている。
ナルはベッドやその下をあらため、衣服を確認し、不服ながらリーザを起こした。
「ん……あ、ナルちゃんおはよー」
「リーザさん、昨日買った指輪を知りませんか」
「えー? ゆびわって、……ゆびわ? なに?」
「昨日二二〇〇ゴルドで買った白燈石の指輪です! あれがなくなっちゃたんです!」
「……え⁉ 大変だ!」
それからリーザの毛布や荷物やらを点検したが、やはり見つからない。ナルは肩を落として、「ハッシュさんに言いにいきます」とつぶやく。
「……ナルちゃん、わたしもいっしょに謝るから」
裏表のないリーザの優しさが今はありがたい。
ハッシュは裏手の井戸で顔を洗っていた。顛末を説明すると、顔色ひとつ変えずにこう言う。
「盗まれたんだろう。他になくなっているものはあるか?」
「あ……はい、今確認します」
リュックサックの中身をその場で広げて、ナルは唇に指を当てた。
「えっと……『暗夜の標』と呪符が全部……お財布は、枕の下に置いていたから、盗られてません」
「わぁ……」
リーザが小さくつぶやくが、ハッシュは気にしたふうもない。
「マジックアイテムは売却しても足がつきやすい。金目当てというより、白燈石を盗むついでに、かさばらない道具を持っていったんだろう。もしかすると、カモフラージュのために余計な道具にまで手を付けたのかもしれない。酒場で派手に聞き込みをしたのが裏目に出た。ナルに落ち度はない。気にするな」
「でも……せっかく見つけたのに……ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「なぜリーザまで謝る」
「泥棒が入って来たのにわたし気づけませんでした。先生の弟子として情けないです」
「それなら、お前たち二人だけにした俺にも責任がある。次からは同じ部屋を取ったほうがいいかもしれない」
「!」
「まずいか」
「いえ、いいアイデアだと思います」
「楽しそうですね!」
「……まあそれはどうでもいい」
話を戻そうと、リュックサックを探って何かを取り出すハッシュ。
「なんですかこれ?」
無邪気にリーザが訊いてくる。
「『
ナルが肩を落としている。
「ああ……使うんですね……使う度に一〇〇〇ゴルドの葉っぱを焚かないといけないやつ……」
「せん……そんなに高いの⁉」
「背に腹は変えられん」
「はー……これ、どうやって使うんですか?」
のんきに問いかけるリーザに答えたのでもないだろうが、ハッシュが手にした香炉に火を付けた。白く細い煙が立ち上り、どこか甘いような香りがみんなの鼻をくすぐる。
「旋誘香は、煙のたなびく方角で、捜し物の場所を教えてくれる。ただし、炉の中にその捜し物と縁のある何かを入れなくてはならない。絵ならばそれを描いた筆や顔料、剣なら同じ鍛冶師の鍛えた刃物といったように」
「じゃあ、指輪を探すなら?」
「同じ白燈石が埋まった指輪を使うんです」
リーザの質問には、ナルが答えた。「あ、なるほど」と得心するリーザ。たしかに香炉の中には、ひび割れた白い石が覗いていた。
「あちらだな」
煙は南西に向けて伸びていた。荷物をまとめて速やかに出発する。
早朝の街は、まだ人並みは少なかった。市の呼び声に吸い寄せられそうなリーザをナルが引っ張り、香を焚きながら歩く変わり者を見る好奇の目をやり過ごし、やがて街の一隅に建つ一軒の住宅にたどり着いた。見るからに廃屋のようだが、煙はその明り取りから建物の中へと吸い寄せられている。
一応戸を叩いて呼ばわるが、誰かが出てくる気配はない。
「体当たりして扉を破るんですか?」
いやにわくわくしてリーザが身体を揺らしているが、ハッシュは香をナルに預け、左手から茨を伸ばした。びくりとリーザが体を震わせる。まだこのハッシュの特技に慣れていないらしい。
するすると成長した茨は、明り取りから内部に侵入し、少しの時間ののち、扉の閂を外すことに成功した。
「……先生、盗賊もできるんですね」
「人聞きの悪い事を言わないでください。緊急事態です」
建物の中は、長い間放置されていたようで湿気と汚れに侵されていたが、埃の積もった床にいくつか足跡が残っていた。最近誰かが出入りしたのだろう。
香の煙は、部屋の奥、傾きかけた木製の扉の向こうへ続いていた。朝の日差しはそこまで届かず、扉の輪郭は闇に沈んでいた。左手首に皮袋から水を与えているハッシュが言う。
「リーザ、明かりを頼む」
「がってんです」
『
ハッシュはずかずかと部屋の奥へ進むと、流れるような動作で扉を蹴破った。
その瞬間、奥の部屋から二人の男が飛び出し、ハッシュに襲いかかった。
しかし右の攻撃は杖で弾いて返す刀で顎を砕き、左の攻撃は素手で受け止め足払いをかけて転倒させた。リーザが小さく拍手する。
二人の男は、どちらも武器として角材を手にしていて、殺すつもりではなく、昏倒させるつもりで攻撃したのだと知れた。
「ぐっ……」
男の一人が、上体を起こした。その顔を見たナルが、小さく声を上げる。
「あっ……猪祭りの時の」
「え? 知り合い?」
「一緒にパーティ組んだじゃないですか。えっと、ほら……」
「セリオ」
名前がなかなか出てこなかったナルより先に、ハッシュが小柄な
「おまえが白燈石を盗み出したのか」
セリオは苦しそうに目線を逸らすと、あっさり白状した。
「……ああ。旦那とは知らない仲じゃないけど、あれが必要だったんだ。仕方ないだろ?」
「使ったんだな」
「……ああ」
ハッシュは扉を踏み越え、奥の部屋に入っていく。リーザにもう一回灯りを放らせると、部屋の様子が浮かび上がった。
物の少ない部屋だった。いくつかの椅子と、小さなテーブル。その片隅に、二つの女性の人影が身を寄せ合っていた。
正確に言えば、片方がもう片方をかばうように抱きしめ、こちらを精一杯睨みつけている。
睨んでいるほうは、
「
ハッシュの後ろで、ナルがつぶやく。
帽子は付けていないが、防護のアミュレットや黒いマントを見ると、格好はそれらしい。しかし、その肌は黒く焼け焦げ、眼球は白濁し、とても生きているようには見えない。
だがその
「ら……ラズベリーパイの、ああ青、並ぶろうそそそく、おお、折れた骨の、杖」
リーザとナルが同時に眉根を寄せた。
「えっと……こんにちは?」
「つつ蔦に、かららむ血、じっ、十角の空、はは流行り病の、セ、セイイイレーンン」
「……先生、なにかの暗号ですかね?」
「記憶にある単語を引き出して口にしているだけだ。動く
「動く
「普通なら無理だ。だが、復活させた
「あ、だから白燈石で……」
座り込んだままのセリオに対してリーザが目を向けると、彼は決然とその視線を受け止めた。
「死んでねぇよ。プリムは死んでねぇ」
だが、薄明かりに照らされたその目は揺れている。自分に言い聞かせるような口調だった。
「道具屋から白燈石を買ったというのも、おまえたちだな」
酒場で聞いた、『
その死をどうしても受け入れられなくて、彼女がこうなる原因となった白燈石に、再びすがった。
「
「……プリムを蘇らせたら、金持ってどっか行っちまったよ」
「『
セリオと
「……で、でも、この石を使ったんなら、大丈夫なんじゃねぇか? 言ってたんだよ、その
「無理だ」
ハッシュがひどく確信的に言った。
「リッチのような不死の呪いを受けた者も、大規模な魔術を時間を掛けて生前に行っている。死後にどう
セリオがバネじかけのように立ち上がり、自分よりも遥かに上背のあるハッシュの胸ぐらを掴んだ。しかし、すぐにその手を緩め、力なくうつむいてしまう。自分たちの買った指輪のせいで仲間を死なせたこと、
「……どうしたらいいの?」
それまで黙っていた
「……シオン、おまえ」
「死霊術は、生命を活性化する術と合わさると、効果が反転する。『
「……無理そうなら、俺が代わりにやる」
「ま、待ってくれ!」
部屋の奥へ踏み出そうとしたハッシュを、セリオが必死で呼び止めた。
「プリムは何も悪さしてない! 生き返らねぇってのはわかったよ……だったらさ、このままそっとしておいてくれてもいいだろ? 誰にも迷惑かけねぇんだからさ! な?」
「
そう言ってもう一歩を踏み出したハッシュに、セリオは飛びついた。
「ローバ! おまえも止めろ!」
ハッシュに顎を砕かれて倒れていた剣士風の男が、いつの間に目が覚めていたのか、跳ねるように飛び起き、セリオに加勢しようとする。
だが、その途中でナルが割り込み、腕が引き抜けそうなほど引っ張ると、剣士はもんどり打って再び転倒した。
セリオの方も、ハッシュの腰に抱きついたはいいが、あっさり引き剥がされ、腕を後ろに回されうつ伏せに制圧されてしまっている。
と、その時、僧侶が驚いたように声を出した。
「プリム……?」
小さく、プリムの口が動いていた。
これまでの意味不明な単語の羅列ではない。途切れ途切れに聞こえてくるそれは、たしかに呪文の詠唱だった。
「伏せろ!」
ハッシュの警告の直後、まばゆい光の渦が発生した。本来は、攻撃対象者の直上に発生するそれは、シオンとプリムの頭上にあった。
「さ……ささ『
術者に吸い込まれるように、雷撃が落ちる。
しかしその直前、ハッシュが茨を展開し、避雷針代わりに電撃を受け、床へと逃した。電撃は二人の至近を通過したが、誰を傷つけることもなかった。
呪文の発動が終わり、皆が無言の中、プリムはただぼんやりと虚空を見ていた。ハッシュが皮袋から水を手首に流している音が、いやに大きく響いた。
「プリム……あなた、苦しいの?」
僧侶がいたわるように言う。僧侶だからというだけではなく、ただ、仲間を気遣う純粋な気持ちがあった。
プリムは答えない。しかし、僧侶は仲間の顔を見渡して、もう一度プリムを見た。
「ローバ、セリオ、ごめん」
セリオが目を見開いた。剣士は力なくうなだれている。
口の中で呪文を唱え、僧侶はプリムの肩を抱いた。
「…………『
仄明かりがプリムの身体を包んだ。しかしそれも少しの間のことで、その光が消えたあと、プリムの姿はどこにもなく、ただ黒い灰が積もっているだけだった。。
すすり泣きが聞こえてくる。僧侶が自分の膝に額を付けるように震え、剣士は握り拳を床にぶつけている。
セリオは、呆然とプリムだった灰を見つめ続けていた。
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