第2章 その2
「あたしはスノードロップ、こっちのでかいのはハッシュ。よろしくね。君はなんて名前?」
近くの河原で、少女は焚き火を囲んでナルに気さくに話しかけた。
ハッシュと呼ばれた男は、先ほどの兎をナイフで黙々と捌いている。慣れた手付きだった。ナルよりもうまいだろう。
「……ナル、です」
いくらか落ち着いたナルは、それだけを言った。
「冒険者だよね? 狩りは初めて?」
うなずく。
「
うなずく。
「そっかぁ。大変だねぇ」
スノードロップは、ナルが守りきれなかった二人にはもう触れなかった。まるでナルが最初から
「あたしら、五人でパーティ組んでんだけどさ、今日は別行動で、この子と一緒に野草採集してたのよね。で、この子、けっこうおせっかいなとこあるから、君のことを見かけて心配になって、つい割り込んじゃったのね。あたしはちょーっと余計なお世話かなとは思ったんだけど、なにしろ止める間もなく行っちゃったからさ」
兎を調理していたハッシュが、ちょっと顔を上げたため、こちらと目が合った。思わず顔を伏せてしまうナル。助けてもらっておいて勝手だと自分でも思うが、背の高い寡黙な男に見つめられると、ちょっと怖い。
「こらこらハッシュ、ガン飛ばさないの」
ハッシュは視線をスノードロップに移し、うつむいたままのナルに移し、手元の兎肉に移し、ぽつりと言った。
「飛ばしていない」
意外と威圧感のない、若い声だった。
ナルは上目遣いになり、ハッシュの顔を伺おうとしたが、彼は調理に戻り、こちらを見ていなかった。
苦笑したスノードロップが続ける。
「で、そんなわけだからウチの
腰に吊るした袋をひとつ外し、口を縛っている紐を緩めて中から手のひらの上に乗るくらいの木箱を取り出す。そしてその蓋を開け、中身をナルに見せた。
どこか黄色がかった白いクリーム状のものが、中に入っていた。
「あたしこう見えて
そう言われて、自分の全身が痛んでいることに遅まきながら気づいた。それまで気が張っていて意識していなかったが、堰が切れたように、シクシクとした痛みが襲いかかってくる。
やや苦悶の表情になったナルの肩に、スノードロップが優しく触れた。
「無理しないで。あたしが塗ってもいい?」
「……おねがい、します」
素直にナルはうなずき、スノードロップは木箱を持って隣に座ってきた。
「男子ー、こっち見ないでよね」
律儀なことに、ハッシュは体ごと反対方向に向き直り、調理を続けた。
スノードロップは、まず水筒の中身で清潔な布を濡らし、ナルの顔や手足をぬぐった。ヒリヒリしたが我慢する。
汚れを落としてから、特製の化膿止めが薄く塗られていった。丁寧に探るような手付きだったので、こちらはそこまで傷まなかった。
治療が終わった頃には、兎の焼けるいい匂いが河原に漂っている。
「さ、食べよう食べよう。ナルちゃんの初めての獲物だね」
ナルはただ突っ立っていただけなのに、スノードロップはそれを意に介さず、等分に取り分けた肉をあてがってくれた。
肉汁の滴るそれは、塩と香草で味と香りを整えただけのものだったが、
「……おいしい」
舌の上で、胸を締め付けるような感情を想起させた。
ふいに、故郷の村で、こんなふうに肉を焼いたことを思い出した。
その時は、確か雉だった。一日だけ弓を教えてくれた近所の猟師が、ナルの家に雉を持ってきてくれたのだ。その記憶の中では、父も母も、もちろんナルも、珍しいご馳走に喜び、笑顔で食卓を囲んでいた。
焚き火の暖かさが、急にたまらなく感じられた。ナルの心のどこかが、どうしようもなく溶けてしまう。
頬が濡れているのを感じる。大粒の涙が、とめどなく自分の目からこぼれ落ちていくのを、ナルは止められなかった。
口からも、嗚咽が漏れていた。木箱に無理やり押し込んでいた羊の皮が、あとになって蓋を押し上げ溢れ出すように、自分の体ではなくなってしまったように、ナルは泣き続けた。
村を追われ、騎士に連れられ、ギルドで修行をしていた時、自分が涙を流さなかったことを、ナルはどこか他人事のように傍観していた。
けれども今は、村で転んで泣きながら帰り、母に手当てをしてもらったことや、下手くそな繕いをしてしまった下履きを父が笑顔で受け取ったことが、泉のように湧き出て、思い出された。
せっかく薬を塗ってもらったのに、身体中の水分が涙になってしまったような号泣で、すっかりナルの顔はどろどろになってしまった。
ハッシュもスノードロップも、ナルが泣いている間、何も言わずに黙っていてくれた。
ようやくナルが泣き止むと、スノードロップは顔を拭いて、化膿止めを新しく塗り直してくれた。
「……ありがとう、ございます」
洟をすすり上げて、なんとかそれだけ言う。
スノードロップは笑顔だけで答え、少し冷めてしまった兎にかぶりついた。
ナルも、二口目の兎を食べる。時間が経っていたはずだが、さっきよりも温かく感じた。
三人が食事を終え、ハッシュが入れた紅茶を飲んで人心地ついた頃、ナルは改まって頭を下げる。
「わたし、村の外に出たのなんてほとんど初めてで……。さっきは、頭が真っ白になって、どうしていいかわからなくなって……。でも、お二人のおかげで、助かりました。ほんとうに、ありがとうございました」
「うん、最初の討伐なんてそんなもんだよ。どんまいどんまい」
スノードロップが気楽に励ます。それが嬉しくて、ナルはこの十数日間で初めて心から笑顔になった。
「さ、あたしらもそろそろ戻ろっかな。っと、その前に」
スノードロップが、ナルに右手を差し出した。ハッとしたナルは、右手を自分の服で拭って、その手を握り返す。
「あー、違くって。ちょっと言いにくいんだけどさ」
握手の形になった手をほどくスノードロップ。小首をかしげるナル。
「さっきの化膿止め、まだお代をもらってないから。一〇〇ゴルドに負けとくよ」
息が止まるような気がした。
「え……? え、だって……」
「よく効くんだけど、材料がちょっと貴重なもの使っててね。悪いけど、これ以上は負かんないわ」
「だって……スノードロップさん、薬、塗ってくれて……」
「タダで治療するとは言ってないし、君も『おねがいします』って言ったじゃん。冒険者がタダ働きとか、口にしただけで寒気がする」
たまらずハッシュを見た。寡黙な男は、黙って二人を見ている。その瞳が、少し気の毒そうな色を帯びているように見えて、ナルは絶望が胸に満ちるのを感じた。
「一〇〇ゴルドなんて、わたし、持ってない……」
「んー、困ったねぇ。あたしもなんとかしてあげたいけど、
「依頼……もうちょっと待ってもらえれば、依頼を受けて、それで……」
「いやー、さっき君の戦いを見せてもらったけど、正直、その方向はあんまり期待できないんじゃないかなーって。次怪我した時は、治療間に合わないかもしれないし」
ナルは押し黙った。逃げようかとも思ったが、先ほどのハッシュの物腰を思い出せば、自分など赤子も同然であるという事実に直面し、その選択は早々に消える。
かつてないほどナルの頭脳は高速で回転していた。田舎村での生活しかしていない自分でも、状況を打破できる何かがないか、乏しい経験から必死でアイデアを絞り出さなければ。
そして、夜闇に一匹の蛍が飛び立つように、ひとつの言葉がナルの口からこぼれた。
「お手伝いをさせてください」
「……手伝い?」
「わたしは、力持ちです。すごく重いものでも、長い距離を運べます。だから、あなたのための荷物運びをさせてください。それで、お金を返します」
かつて村に来た旅人が、話してくれたことがある。冒険者の中でも、特に
「身体で払うってことね。でもさ、君のその華奢な身体じゃ、ハッシュの剣一本持てそうにないんだけど」
「確かめてください」
胡乱げなスノードロップをよそに、ナルはハッシュをまっすぐに見つめた。
「そっちのハッシュさんと、腕相撲で勝負して、わたしが勝ったら認めてください」
スノードロップはぽかんとした表情になったかと思うと、「ふふっ」と吹き出し、声を上げて笑った。
「いやいやいや、そりゃ無茶だって。君は知らないだろうけど、彼はそりゃもう馬鹿力の持ち主で、こないだなんか、トロル三体を――」
そこまで言って、スノードロップは口をつぐむ。ナルの目が本気であることを悟ったようだった。
「――いいよ。ハッシュ、軽く畳んでやって」
「……しかし」
二人のやり取りを見守っていたハッシュが、困惑したように声を出した。
だが、ナルは手頃な平たい岩を見つけると、早々とその隣に腰を下ろしている。
無言で顎をしゃくるスノードロップ。
ハッシュは小さく息をつくと、岩を挟んでナルの向かい側にポジションを取った。
お互いの右手を組む。まさに大人と子供という体格差だったが、なんとか形にはなっていた。
「じゃあ二人とも見合って……レディ……ゴッ」
その掛け声で、ナルとハッシュはそれぞれの腕に力を込める。
最初は気が進まなそうなハッシュだったが、スタートと同時に表情が変わった。
一方で、ナルは内心で驚愕していた。
(強い……!)
自分で言うのも何だが、ナルの腕力は尋常ではない。村の男衆でナルに力比べで勝てる者はいなかったし、水汲みの時には一人で六人分を同時に運んでいたものだった。
ギルドの師匠にも、腕っぷしだけは褒められた。だから、いかにハッシュが歴戦の勇士でも、単純な力だけなら、勝ち目があるという目算があったのだ。
しかし、実際にはそれが甘い考えだったというしかない。
目の前の男は、ナルがこれまで会った誰よりも手強かった。
とうに全力を出している。が、相手の腕は中央の位置から倒れる気配がない。逆に、じりじりとナルの側が押されている。
ハッシュは予想外だったろうナルの力に驚きつつも、真剣な顔に戻ってさらに右腕に力を込めた。
大見得を切った以上、ここで負けるわけにはいかない。しかし、意地で突然腕力が強化されるはずもなく、逆に筋肉が悲鳴を上げ始めているのが、どうしようもなく伝わってきた。
限界だった。気持ちが一瞬緩んだ瞬間、ハッシュの手がナルの手を岩の上に押し付けた。けっこう大きな音が鳴った。
ナルは負けた。
「すまない、大丈夫か?」
手の甲が赤くなっているのを気にして、ハッシュがナルを気遣うように言った。
しかしナルのほうには、そんな台詞は届いていない。自分にとって、『力持ちである』という一点のみは、絶対に揺るがない背骨に等しかった。ナルの十三年ちょっとの人生において、太陽が毎日昇るように、川が低きに流れるように、自分が筋力では誰にも負けないという事実は動かしがたい真理だった。
それが今、粉々に打ち砕かれた。
ナルの目尻に涙が浮かんだ。
とっくに水分が枯れてしまったように思えても、まだ涙を流す自分に半ば呆れたが、止められないものはどうしようもなかった。
ハッシュが狼狽する。
「あーあ、ハッシュがいじめるからー」
スノードロップが茶化し、目の前の男は少年のように「い、痛かったか?」とナルに触れるべきかどうか困っている。
ナルはごしごしと目をこすり、「大丈夫です」とつぶやくように返事をした。
「わたしの負けです。ごめんなさい。大口を叩いて。ハッシュさんにも、失礼でした」
「……スノー」
何かを言いかけたハッシュを、スノードロップは片手を挙げて制した。
「ナルちゃん、ハッシュと力比べして、あれだけいい勝負できたのは君が初めてだよ。すごいね」
ナルはスノードロップを見た。彼女の長く白い髪が、太陽光を浴びて背後の川よりもきらめいているように見えた。
「薬代はもういいや。その代わり、君にあたしのチームの荷物運びとして、契約を結びたい。三食と寝床は提供するよ。どうかな?」
差し出された右手を、ちょっとためらってから、握り返した。
「契約成立」と言うと、スノードロップは握手された手を見て深刻ぶって続けた。
「あー、赤くなってるねー。どうかな? 打ち身に効く薬があるんだけど、使う?」
ナルはほとんど反射的に答えた。
「けっこうです」
スノードロップはいたずらっぽく笑い、「残念」と唇で言った。
率直に言って、ハッシュはともかく、スノードロップは明確に悪人寄りの人物だとこの時感じていたし、今でもそう思っている。
ともあれ、こうしてナルは彼女たちの仲間になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます