第2章 その1

 ナルの家族が死んだのは、二年ほど前のことになる。


 その頃彼女は、普通の村で普通の農民の娘として暮らしていた。幸いにも、肥沃さと温暖さに恵まれたその土地は、飢えることもなく穏やかに羊を追って暮らすだけの恵みを家族に与えてくれていた。

 ナルには、物心ついた時から周囲の人間と明確に違う才能があった。

 並外れた筋力である。

 三つの頃には水瓶を持ち上げて喉を潤し、五つの頃には薪になる丸太を一人で運んでいた。

 その頃から彼女に腕力で敵うものは誰もおらず、定期的に村の若い衆が家を訪れては、腕相撲を挑んで負かされるというのが恒例となっていた。

 ただし、その代わりというべきか、力仕事以外にはナルは一切の適性を示さなかった。


 とおになっても針仕事をすれば貴重な布を穴だらけにするだけだったし、洗濯は力があり余りすぎてこれまた貴重な衣服がボロきれと化した。料理はまだマシだったが、野菜も肉も《武士サムライ》が試し切りに使ったかのような有様だったし、村の誰一人として、彼女に子守を任せようとはしなかった。

 母はそんな娘を心配していたが、父はそれが誰にもない才能だと皆に誇っていた。だから、ナルもそんな期待が嬉しくて、毎日の水汲みや干し草の運搬や大工たちの手伝いを率先して行い、村の人間に愛される存在になっていた。


 ある時、何の前触れもなく、村に《剣蜥蜴ソードリザード》の群れが襲いかかってきた。それまでは、獣を追い払う程度の備えしかしておらず、常駐騎士も存在しなかった村は、一夜にして全滅した。

 あとからわかったことだが、《剣蜥蜴ソードリザード》は複数の《召喚士サモナー》に召喚されたものだったらしく、彼らは土地の魔力を吸い集め、より高次の召喚を研究することが目的だったという。人の住む土地には、自然と魔力が集い、こごる。それを利用するためには、住人は邪魔だったらしい。

もっともこの時のナルには知る由もなかったし、今となってはどうでもいいことだ。


 その夜、ナルたち家族は自宅で夕食を取っていた。

 最初に異変に気づいたのは父で、犬たちが吠え立てる声を気にして外に様子を見に行ったと思えば、血相を変えて部屋に取って返し、妻と娘を追い立てるように外へ出した。

 ナルが家の外に出ると、まだ暖かな初秋の夜風に混じり、村人たちの悲鳴が届いてきた。

 羊たちが怯え、柵の中で恐慌したように動き回っている。


 その奥から、異形の怪物が滑るように近づいてくるのに気づいた。

剣蜥蜴ソードリザード》は、大人の脚ほどの大きさの刃を備えた尾を持つ巨大な蜥蜴で、外見から予想できないほどの素早さで獲物を攻撃してくる。

 そんな知識のないナルは、普段仲良くしている牧羊犬ほどのスピードで迫ってくる異形への恐怖と混乱で、足が動かなくなってしまった。

 感情のない赤い瞳孔が、暗闇の中でも自分をひたりと見据えているように思えた。


 それが、父の背中に遮られた。

 ナルが一度破ってしまって、母が苦笑しながら繕い直した麻の肌着が、目の前にあった。

 父は農作業用の鍬を持ち出していて、蜥蜴と相対していた。背中を向けたまま逃げろと短く叫び、母はナルの手を痛いほどの力で引いて、強引に走らせた。

 ナルが最後に見たのは、羊には目もくれずに父へと不吉な刃の尾を振り上げる蜥蜴と、普段どおりにしか見えない、農作業で日焼けした父の首筋だった。

 背後からはいまだに村人の叫び声が聞こえていたはずだが、ナルの耳には、自分の心臓と荒い呼吸の音しか届いていなかった。母も、一切声を上げず、すべての体力を走ることに費やしているようだった。

 何か取り返しのつかないことが起こっていることには、うっすらと気づいていた。が、それをはっきりと認識するのはひどく怖くて、両脚を動かし続けることに、神経を集中した。


 村のそばの、森の入口に差し掛かった。たびたび薪を取りに出入りしている、ナルにとっては庭のような場所だ。だが、夜の森はどこまでも暗く、まるで別の世界への入り口のようだった。

 だしぬけにナルは突き飛ばされ、落ち葉を吹き飛ばしながら地面に転がった。

 驚いて身を起こすと、母の腹から刃が生えていた。

 母はその刃を両手で掻き抱くように握りしめると、ナルに口の動きだけで「にげて」と言った。


 その後のことは、記憶が曖昧でよく覚えていない。

 一晩中森の中を歩き続け、翌日の昼前に、ようやく別の村にたどり着いて保護されたあと、派遣された騎士から事情を訊かれ、何か返事はしていたらしい。

 村人は全滅し、生き残りは自分だけだということを、ナルはどこか遠くのことのようにして聞いた。


召喚士サモナー》たちは村を自分たちの拠点とし、蜥蜴どもに周囲を警護させているらしい。おかげで近隣の騎士だけでは手が出せないが、援軍がやってくる頃にはすでに目的を果たし、雲隠れしているだろうとも。


 何日後のことだったか、騎士に連れられ、近くの比較的大きな都市にやってきたナルは、いくばくかの硬貨を握らされ、祝福のまじないを唱えられて、そして一人になった。

 街といえる場所の空気を吸うのは、父に連れられて市に行った以来のことだった。しかし、この時は昔と違い、ナルの他にいるのは見知らぬ人々だけだった。

 騎士が言うには、身寄りのいない、財産もない人間が身を立てようとする場合、たいていは冒険者になるという。

 ナルの状況なら、保護された村の誰かに引き取ってもらうという可能性もあったはずだった。

 しかし、召喚獣が仕留め損ねた生き残りという立場がよくなかった。この周辺の一帯では、魔術によって狙われた者は、いずれ新たな魔術の標的となり、周囲に災いを及ぼすという俗信が存在した。

つまらない迷信だと切って捨てることはできる。しかし、その話は、当時のナルも耳にしたことがあった。なんにせよ、彼女の選択肢はひどく少なかった。


 ナルは教えられた建物へとなんとかたどり着き、自分の窮状を説明した。対応した若い女性は、同情心を大いに表し、親切に説明をしてくれた。

 冒険者は、魔獣の爪や皮を売る以外では、基本的に誰かの依頼を請け負って金銭を得る。しかし、それをするにはどこかしらのギルドに所属し、一種の身分証明としなければならない。ギルドはそれぞれの職業によって分かれており、たとえば《魔術師ウィザード》ギルドに入れば魔法を教えてくれるから、自分に向いていそうなギルドを選んで入るのがいい。

 ギルドへの入門に必要な金額は、ナルの持っている金の半分だった。


 慎重に検討した結果、ナルは《剣士ソードユーザー》のギルドを選択した。

 あらゆる戦場で必要とされ、また、単体での対応力と武器の選択による応用力のある職業だ。

魔術師ウィザード》や《僧侶プリースト》といった、小難しい呪文の詠唱が必要な職は最初から考慮にない。また、以前弓を扱ったことがあるが、それ以降二度と触れさせてもらえないという結果だったので、《狩人ハンター》も論外、手先の器用さが必要となる《盗賊シーフ》などはもってのほかだ。

 その点、自分の腕力が最も活かせそうな《剣士ソードユーザー》は適正があるとまでは言えなくとも、最もまともな選択であると感じた。


 ナルはギルドの門を叩いた。師範は大柄で屈強そうな壮年の男性で、今は門弟が他にいないからと、ナルにつきっきりで指導をしてくれた。

剣士ソードユーザー》となる冒険者が最初に習得する技は、『敏襲クイックレイド』と呼ばれる、速度をつけて敵の懐に飛び込み、剣で斬りつけるというものだった。

 ひたすらに木剣を素振りし、足さばきを身体に覚え込ませ、師範に幾度となく転ばされながらも、訓練期間の六日で、なんとか《剣士ソードユーザー》としての基礎と『敏襲クイックレイド』を習得することができた。覚えは悪かったが、何よりもその腕力を武器にすれば、頼れる戦士としてやっていけるだろう。師範は太鼓判を押してくれた。


 そして勇んでギルド組合の扉を再び叩き、自分と同じ時期にギルドを修了した《魔術師ウィザード》と《僧侶プリースト》の二人と臨時でパーティを組み、初級者向きだという依頼を請けた。

 内容は、《顔削ぎ兎》の駆除。小型犬ほどの大きさの魔獣で、すばしっこいが攻撃力は低く、危険は小さいと二人は言った。


 三人は草原へ繰り出し、二匹の兎と遭遇した。

 もちろん剣士であるナルが先頭に立ち、二人の防波堤となる。まず後方から火球の魔法が撃たれ、先制攻撃を仕掛けたが、兎にはかすりもせず、逆に反撃をしてきた。

 顔削ぎ兎の攻撃は、身体を丸めて回転しながらジャンプし、体当たりや前歯で齧りつくというものだ。

 素早い動きとはいえ、単純な直線運動しかしてこない。落ち着いて対処すれば、駆け出しでも十分防げる攻撃だった。


 だが、兎の赤い瞳が目に入った瞬間、ナルの全身が硬直した。

 右腕に齧りつかれた。ハッとした時には、もう一匹の兎が、仲間に襲いかかっている。

 僧侶プリーストがなんとか体当たりを躱し、杖を振って威嚇する。

 その間、魔術師ウィザードが呪文を唱え、二度目の火球を放ったが、兎の白い毛をかすめ、焦がしただけで終わった。

 ナルは右腕を振り回して兎をなんとか引き剥がしたが、その兎は地面でバウンドすると、魔術師ウィザードの方へ跳ねていった。

 攻撃直後だった魔術師ウィザードは、意識の外からの急襲に対応できなかった。悪いことに、首筋に兎の歯が当たった。

 鮮血が驚くほどの勢いで吹き出した。

 一瞬、何が起こったのか理解できなかった魔術師ウィザードは、声にならない悲鳴を漏らし、傷口を必死に手で塞ごうとした。

 僧侶プリーストは狼狽しつつも魔術師ウィザードのそばに駆け寄り、呪文を唱える。しかし、後頭部に兎の体当たりを喰らい、詠唱が中断してしまった。

 そんな状況でも、ナルは動けない。まるで薄皮一枚隔てた別の世界のことを見るように、この惨状から遠くにいる自分を自覚していた。


 魔術師ウィザードが、青ざめた顔でなお呪文を完成させ、三度目の火球を放った。

 今度こそ直撃した。兎は一瞬で炎に包まれ、短い断末魔を上げて動かなくなった。

 しかしもう一体の兎は、構わず攻撃を再開している。その体当たりをを杖で受けて逸らし、僧侶プリーストがなんとか『癒術ヒーリング』を発動させた。

 血が止まった。相当に消耗していたが、魔術師ウィザードの傷はふさがり、急場はしのいだ。

 二人はもはや声もあげず、脱兎のように逃げ出した。その時の僧侶プリーストが自分を見る、失望の眼差しを、ナルはいまだに忘れられない。

 兎は走り去る二人を無視し、一人残ったナルに襲いかかる。

 ナルは頬に、腕に傷を負いながらも、脚を動かせずにいた。

 ギルドで習い覚えた『敏襲クイックレイド』など、もはや毛ほども頭になかった。

 次第に増えていく肉体の痛みも、頭の中を占める茫漠たる感情には他人事のようで、まるで雪山に取り残されたように、身体が震えて仕方がなかった。

 脳裏には、血にまみれた父と母の姿が焼き付いて離れずにいた。


 その時、ナルの目の前に、誰かがいるのに気づいた。いつの間に近づいていたのか、まったくわからない。革鎧に包まれた大きな背中が、一瞬だけ父とダブって目に映った。

 長身の戦士だった。その身長に比しても巨大な剣を背負い、籠手に包まれた手で、顔削ぎ兎を捕まえていた。赤錆色の髪の下にある精悍そうな顔がこちらを振り向き、何かを言おうとしたのか口をわずかに開いたが、結局口を利かずに逆方向を見た。

 そちらから、一人の少女が歩み寄ってきていた。


「やーやー、余計なことしたかな?」


 白皙のおもてに、腰まで届きそうな銀髪――いや、白髪はくはつだろうか。やけに多くあしらわれたベルトに、いくつも袋が下げられている。


「血相変えて逃げてった魔術師ウィザードの子らがいたんだけど、君の仲間? 殿を務めるなんて偉いね」


 少女は目の前にまでやってきて、ナルの顔を覗き込んだ。傷と冷や汗と恐怖で見られたものではなかったはずだが、この時の彼女にはそんなことに考えを巡らせる余裕がなかった。


「とりあえず、ごはんでもいっしょにどう?」


 少女は魔女のように笑った。

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