第1章 その6

 ナルが荷物から皮袋を取り出し、その中身をハッシュの左腕に注いだ。中身は単なる水で、しかし、これ以上なく重要な荷物である。彼女の背負った巨大なリュックの三割は、この皮袋で占められている。

 興味深げなリーザの視線を受け流しつつ、ナルは袋の中身をすべて空け、新たに三個の皮袋をハッシュのベルトに吊り下げた。右腰にひとつ、左腰にふたつ。ゆったりとした外套が袋に押し上げられて、少しシルエットが崩れた。

 ハッシュの身長より少し大きい程度の岩の陰に、三人は潜んでいた。彼の脚で五十歩ほどの距離には、ワイバーンと大柄な《狩人ハンター》が戦闘を繰り広げている。狩人ハンターがまともに狙ったとも思えないような速度でクロスボウを構え、放つ。その矢は見事な軌道でワイバーンの心臓へ吸い込まれていくかに見えたが、ワイバーンの翼が一打ちすると、勢いを削がれてそばの枝にぶつかり落ちた。

 ワイバーンの目線が狩人ハンターへ向く。攻撃の直後に移動していた狩人ハンターは、木の幹の後ろへ飛び込んでいたが、ワイバーンの尾がその木を横薙ぎに払い、いともたやすく吹き飛ばした。

 猶予はなかった。


「余裕があれば援護を頼む」

「もちろんです」


 振り向かずに伝えたハッシュに、ナルが微笑で答えた。そして次の瞬間、目の前の光景にリーザは息を呑んだ。

 水を浴びたハッシュの左手首から、何かが伸びている。

 植物の蔦のような、親指と人差し指で円を描いたくらいの太さのそれが、手首に埋まった黒い種のようなものから、異様な速度で成長をしていた。

 蔦には鋭利な棘がびっしりと存在しており、それが茨なのだということを主張していた。

 すでに茨はあたりの木々よりも長く成長を遂げており、ハッシュの足元で波打つようにわだかまっている。

 その先端が、意志を持っているかのように持ち上がった。

 そしてハッシュが岩陰から飛び出すと同時、茨がそれまでに倍するスピードで成長し、ワイバーンへ向けて猛烈に伸びていった。

 異常な何かの到来を察知したワイバーンが、狩人ハンターから注意を切り、到来する茨を躱した。茨はその後方の木の幹まで到達し、瞬時にそこに巻き付いた。

 そして茨は鞭のようにしなり、その主を引き寄せ、ハッシュ本人が宙を駆けた。

 木立の隙間を砲弾のように抜けたハッシュは、勢いをそのままに、ワイバーンへと体ごと突撃し、右手の杖を振るった。

 それがワイバーンの右翼を打ち、硬い物のぶつかる音が鈍く響く。

 怒りに猛るワイバーンは、牙の並んだ顎を突き込み、ハッシュを噛み砕こうとする。

 が、ハッシュの左手首から伸びている茨がのたうつように動くと突如半ばから自切し、空中で軌道を変えたハッシュは地面に着地した。ワイバーンの牙は空を切る。

 木の幹に巻き付いていた茨は、みるみるうちに白っぽく変色し、枯死していった。一方で、手首から伸びる茨はまた成長を続け、長さを取り戻そうとしている。

 先ほどまで善戦していた狩人ハンターが、尻尾を巻いて逃走するのが木々の間から見えた。せっかく助けたのだから援護してほしいとリーザは思うが、ハッシュは意に介さず、再び茨を伸ばした。

今度は一本ではなかった。茨は根本から枝分かれし、二本となったそれらがさらに三本ずつに分かれ、総数六条の茨の鞭が、ワイバーンへと殺到した。

二条は翼に弾かれ、三条は牙に引き千切られ、一条がその脚を封じた。

その時、ワイバーンが頭をのけぞらせ、低い唸り声を轟かせる。

その口内に、仄白く閃く揺らめきが見えた。

ナルが手に持っていた瓶を投げた。瞬間、ワイバーンの口が大きく開かれ、爆発的な勢いで赤熱する火炎が吐き出された。思わず目をつぶってしまうほど、激烈な熱波だった。

火炎はハッシュを含む森の広範囲を包み込み、灼熱地獄と化した。離れているこの場所まで、熱風が届いてくる。


「こっちへ」


 ナルがリーザの手を引っ張り、森の奥へ導いた。呆然としていたリーザは、バランスをまともに崩しかけながらも、それについていく。木立が燃えているため、隠密するにはもっと木が無事な場所に行くべきだった。


「せんせい、先生が、あれ……」

「大丈夫、茨に防御用の薬を使ったから。無事です」


 不安を口にするリーザに、ナルが落ち着いて言った。


「茨……? 茨なの、あれが?」


 その時、どこから落ちてきたのか、黒いボール状のものが少し離れたところに落下し、弾んでから少し転がり止まった。


「ひっ」


 リーザの口から、はっきりと恐怖の悲鳴が上がった。

 その黒い何かは見る間に罅が入るように朽ちていき、中から見覚えのある姿が登場してリーザは目を剥いた。


「え……? 先生? え……?」


 現れたハッシュは、服に汚れがついている程度で、ほとんど無傷だった。黒く焦げていたのは例の茨で、それにくるまった状態で、ここまで退避してきたのだ。

 散歩から帰ってきたかのように平然としているハッシュは、ナルに左手に水をかけてもらいながら、視線を上空へ送っている。戒めから解き放たれたワイバーンは、再び空中を舞っていた。半ばから焼き切れた茨が脚からほどけ、どこかへ落ちていく。

 今の火炎でハッシュを焼き殺したと思っているのかは定かではないが、こちらの居場所はバレていないようで、それは間違いなく朗報だった。

 いまだ混乱から冷めないリーザに、ハッシュが言った。


「頼みがある」


 いつもどおりの、掴みどころのない表情だが、目の奥に力があった。

 ナルが鼻白んだように、リーザを横目で見ていた。



 ワイバーンは森の上空を飛行している。漫然とした動きに見えるが、その隼並みに優れるとされる視力で、獲物を探しているのだろう。

 その姿が、ある地点の上空に差し掛かった時、ふいに森に変化が起こった。

 白く濁った何かが湧き出し、木々の間に充満して、見る間に小さな街の広場程度の面積を覆い尽くした。

 ミルクのような濃い霧が、そこに突如として充満していた。

 次の瞬間、霧の中から茨が突き上がるように伸び、ワイバーンを攻撃した。

 茨は正確な動きでその巨体を追いかけるが、ワイバーンは翼を一打ちして身を躱し、逆に茨の根本へ向かって急降下した。

 白く染まった森の中に突入したワイバーンは、しかし、地上に攻撃者の姿を見つけられず、地面の直前で急制動をかけた。

 確かに茨はこの地点から上空へ伸ばされている。だが、その根本に本体の人間はおらず、があるだけだった。

 後方から、三条の茨が襲いかかってきた。その卓越した身体能力により、ワイバーンは回避する。そして回避した先に、さらに六条の茨が殺到する。半分は強靭な脚の爪で切り払い、半分は強固な鱗で弾いた。しかし茨の棘も並の強度ではなく、鱗の数枚を引きちぎり、外皮を裂いて赤黒い血液をしぶかせた。

 怒りの咆哮を上げるワイバーンは、きっとこの一帯を火炎の息で焼き尽くしたいことだろう。

 しかし、ブレスを使った直後ではできない相談だった。いしゆみに装填の時間が必要なように、ドラゴンの火炎は連続で吐くことができないようになっている。

 戦場の不利を悟ったワイバーンは、上空へ逃れようと翼を羽ばたかせた。

 そうはさせまいとする茨がさらに伸びるが、ワイバーンのほうが一瞬早く、霧の森を抜け出した。そのまま上昇するワイバーンと、昔話に出てくる植物のように、天を目指して急激に成長する茨。

 ワイバーンは、自分を追ってくる茨を煩わしげに尾で打ち払った。先ほどとは違い、一条しか伸ばされなかった茨はあえなく弾かれる。

 その先端に、何かが貼り付いていた。

 手のひらほどの大きさの、長方形の紙だった。

 その瞬間、ワイバーンの尾を中心とする球状に青白い光が弾け、その空間が急激に凍りついた。

 逞しい尾はほとんど根本から氷漬けになり、左の翼の半ばから背にかけても、同様に白く凍っていく。

『凍結の呪符』――冒険者の間では、『三百ゴルドのアイスボックス』とも呼ばれるアイテムだった。

 符の周囲の限られた範囲でしか効果が表れないにも関わらず、その形状から投げて使うこともできず、折っても曲げても効果が激減するという、扱いにくい割に無駄に高価という道具だが、この瞬間は抜群の効果を発揮した。

 片翼を奪われたワイバーンは、それでも素晴らしい生命力で身を翻し、滑空してその場から逃れようとする。

 その前方に、小さな光球が飛び上がってきた。

 淡い赤に光るそれは、ワイバーンの斜め下まで来ると、強烈に発光を始めた。

 本来信号弾として使われる『光信シグナル』の魔法だが、赤の『光信シグナル』は、発光時間が短い代わりに強力な光を生み出す。

 その光に紛れ、一人の人間が自分のそばに近づいていることに、ワイバーンは気づけなかった。

 ワイバーンの右脚に茨を巻きつけ、その張力で上空へと飛び出したハッシュが、茨に水を補給し終えたところだった。ハッシュは自身の上昇する力が落下のそれに変わる瞬間、左腕を突き出した。

 正面には、ワイバーンの顎。

 猛烈な勢いで成長した茨は、その半開きの口からワイバーンの体内へと侵入し、一瞬のうちに数え切れないほどの枝分かれを遂げ、内側から突き破った。

 全身が針山のようになったワイバーンは、それでも口内に魔力を集め、再び炎を吐き出さんと息を吸う。しかしそれが放たれる寸前、茨が口蓋を食い破り、その先端が竜の脳幹と眼窩を貫いて種火は消えた。

 ワイバーンの右の眼球がこぼれ落ち、赤い糸を引いて森のどこかへと消えていった。

 力を失った巨体は、子供が橋から落としたぬいぐるみのように、無抵抗に落下していく。

 ハッシュは茨を自切し、手近な木の幹に向けて新たに成長させ、飛び移った。

 直後、木をなぎ倒してエメラルドの肉塊が地面に落着し、腹に響くような音が轟いた。

 その後に残ったのは、痛いような静寂だけだった。

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