第1章 その5

 南の森は、まばらに木漏れ日が差し込み、意外と明るい印象のある空間だった。

 そこここで冒険者たちの怒号や快哉が飛び交い、獣の死骸が点々と放置されている。平原ではすでに回収作業が始まっていたので、このあたりの猪も、そのうち肉として処理されるのだろう。

 何度目か数えるのも馬鹿らしくなるが、ハッシュが灰色の斑模様を左腹に持つ猪を殺し、一行を振り返った。


「疲れていないか?」

「いや、それはこっちの台詞なんだが……」


 セリオはむしろ、自分が疲れるなら精神的な面でだとでも言いたげだった。


「楽できるのはマジありがたいんだけどな、無茶はしないでくれよ旦那」


 彼の中で、ハッシュの呼び方が自然と決められたようだった。


「まあこのペースなら入賞は固いでしょう。もう少しゆっくりでもいいと思いますよハッシュさん」


 ナルもセリオに同意するようなことを言う。実際すでに討伐数は二十体を数え、記録係が引きつった顔を隠すことができなくなっている。例年の優勝グループの平均討伐数が二十五体程度だというから、かなり余裕があるとみなしていいだろう。入賞どころか優勝が見えている。

 ナルはちらりとリーザを見た。自分の実力をアピールしようという目算だったのだろうが、逆に圧倒的な実力差を見せつけられて落ち込んではいないだろうか。

 リーザはうつむいてはいなかった。しかし、闘志に燃えるという感じでもなく、どこかぼんやりとした雰囲気で辺りの梢に視線を向けていた。

 怪訝に思ったナルが声をかけようかと考えていると、先にリーザが口を開いた。


「何かいます」


 意外な発言に、セリオが反応する。


「そりゃ、こんだけ猪がいるんだから……」

「じゃなくて、何か……」


 本人も具体的に言葉にすることができないようだが、その困惑した表情を見下ろすように、ハッシュが訊いた。


「どのあたりかわかるか?」

「えっと、あっちの方だと思うんですけど……」


 リーザが指差すほうに耳を澄ませてみる。風に乗って、獣の血臭と、人の声が届いてきた。

 悲鳴のように聞こえた。


「な、なんだろな今の……」

「この時期に大量発生しているのはねぶり猪だけだ。他の魔獣が生息しているという話もない。しかしねぶり猪以上の敵がいる可能性は常にある」


 ハッシュはセリオに顔を向けた。


「見てきてくれ」

「え、俺⁉」

「《盗賊シーフ》でしょう? 斥候をしない盗賊シーフは泳げない人魚と同じですよ」

「がんばってください!」


 ナルが半目で吐き捨て、リーザが純真な瞳で両手を突き上げた。

 選択の余地は存在しなかった。セリオは期待と威圧の眼差しを等分に背に受け、息を潜めてできる限り音を立てずに進み、森林を奥へと進んでいった。

 盗賊一人では、遭遇したのが単なる猪でも逃げの一手を打つしかない。そもそも見つからずに進む以外の方法はないのだ。ため息をつきたくなるのを我慢して、ギルドで習い覚えたばかりの無音歩法で先へ向かう。

 木立を縫うように進み、それまで遠く断続的に聞こえていた悲鳴が、だいぶ静かになっていることに気づいた。

 そして、その場所にたどり着いた。

 一瞬、岩が屹立しているように見えた。

 だがその岩は二本の脚で移動して、周囲を威圧するように睥睨していた。

 エメラルド色の鱗が木漏れ日を反射する体表。肉厚の翼と、丸太のように太い尾。見る者が恐怖を覚えずにはいられないような鋭い牙の並んだ顎。

 一体のワイバーンが、人間の死体が撒き散らされたさなかを歩いていた。

 本来は、遠くセンラード山脈まで足を伸ばさなければ遭遇することなどありえない亜竜種だ。もちろん、こんな何の変哲もない森に生息しているような生物ではない。

 今は翼を畳んでいるが、それでも全長はセリオ三人分はあるだろう。口から飛び出しそうになる心臓をなんとかなだめ、セリオは生涯で最高の集中力をもって、全力で木立と同化した。

 幸い、ワイバーンがセリオに気づくことはなかった。唐突に上方を向くと、地面を蹴って飛翔し、あっという間に上空へ飛んでいってしまった。

 飛び上がりざま、両脚に生えた凶悪な爪に、赤黒い染みが生々しく付着していることに気づいた。

 亜竜の姿が見えなくなって、たっぷり十秒数えてから、セリオはようやく息をついた。これは駄目だ。冒険者にはできることとできないことがあるが、あれはどうしようもない。

 森の中に散らばっている冒険者の遺骸は手に手に武器を握っていたが、それが功を奏さなかったのは、先ほどのワイバーンに傷一つないことを見れば明らかだ。あれを倒そうというなら、うちの魔術師ウィザードが束になっても無理だろう。ワイバーンの外皮は剣にも魔法にも強い。

 セリオは踵を返し、もと来た方へ戻ろうとする。理由などわかるはずがないが、怪物じみた敵がこの場に現れたのは確かだ。イベントどころではない。急いで戻って、腹痛はらいたで唸っている仲間を叩き起こして、街が襲われる前に即バックレなければ。今日出会った三人には悪いが、まっすぐ街に向かうルートで合流できなければ、自分だけで逃げなければならない。だが運良く合流できれば状況を伝えて一緒に逃げてもらおう。一人の時に襲われれば確実に死ぬが、四人ならその確率は多少なりとも下がるはずだ。

 二秒でそんな計算を行い、駆け出すとすぐに見覚えのある顔と出くわした。セリオは思わず切迫した声を上げてしまう。


「旦那、やばい、この森、ワイバーンが……」

「飛び立つのが見えた。怪我はないか」


 先ほどまでとまったく変わらない顔色で、ハッシュが訊いた。ちょっと意表を突かれたセリオは、「ああ、大丈夫……」と返答する。もしかして、自分を心配して追ってきたのだろうか。


「先生、あっちに人が……」


 ショートソード持ちの少女、リーザが指を差す先は、先ほどまでセリオが息を潜めていた場所だ。


「駄目だ、旦那。みんな死んじまってるよ」


 セリオは言うが、ハッシュは一瞬だけ黙ると、


「少し時間をくれ」


 死屍累々の空間へと駆け出してしまった。迷わずそれを追う二人の少女。

 セリオは「ああ、もう……」と悪態をつくが、せっかく合流できた以上、また一人に戻るのは戦略的にも心情的にも悪手に違いない。仕方なく三人の後についていった。

 ハッシュはフード付きのコートをまとった遺体のそばに膝をつき、その手を握っている。その背中はコートごとざっくりと切り裂かれ、下生えはおびただしい量の血で濡れていた。どう見ても死んでいた。

 それ以外の者も、あるいは手足をもがれ、あるいは胸や腹を引き裂かれて倒れ伏しており、生存者がいるはずもない。

 ハッシュが立ち上がり、「行こう」と走り出した。全員それに続く。


「死体の中に《召喚士サモナー》がいた。そいつがあのワイバーンを喚び出したんだろう」

「《召喚士サモナー》……って、モンスターを召喚して使役できる人、ですよね。自分で喚んだ召喚獣に、殺されちゃったんですか?」

「稀にあることだ。術士の力量や体調、喚び出す魔獣と環境との齟齬、そういう要因が重なって、召喚獣の制御ができなくなることがある」

「そして、召喚獣に命令できるのは、召喚者だけ」


 あとを引き継ぐように、リュックサックの少女、ナルが言った。

 つまりあのワイバーンを止めるには、なんとかして退治するしかないということだ。

 あまりにも当然の帰結に、セリオは頭を振る。まさかとは思うが、この連中はアレとやりあおうというんじゃなかろうか。

 その予感を後押しするように、ハッシュが声を上げた。


「あそこだ、降下してくるぞ」


 広葉樹の枝葉の向こうに、エメラルド色の竜が羽ばたいている。

 それが、ふいに羽ばたきを止めるや、凄まじい速度で流星のように急降下してきた。こちらにではない。少し離れた森の中を目がけ、ほとんど落ちるように木々の間へ姿を消すと、そこから何人かの悲鳴が響いてきた。

 ハッシュが振り返り、セリオは慌てて手を振る。


「だ、旦那、アレは無理だって! 俺は逃げるぜ!」

「セリオは逃げてくれ。俺があいつの注意を引く」

「えっ……」

「ただ、平原には出るな。見通しのいい場所では単なる的だ。森の中に潜んで、見つからないようにしていろ。記録係も隠れさせたから、もし合流できたら頼む。リーザはセリオと一緒に……」

「ついていかせてください先生」

「……ナル」

「当然わたしもついていきます。リーザさんは、わたしのリュックの影に隠れていてください」


 ハッシュは息をひとつつくと、


「ワイバーンは目がいい。剣は抜くな。光の反射で見つかりやすくなる」


 そうしてハッシュたち三人は、ワイバーンが降下していったエリアへ向けて駆け出していった。

 あとに残されたセリオは、憮然として立ち尽くしていた。

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