3.ファースト・フライト(備品)
夜。
ごろごろ、と。
ベッドの上に寝っ転がって、それを読み
こんこん、と。
ノックの音。
「おーい。デイジー。俺だ」
「はいはーい。今出ますよ少佐ー」
と返事をして、扉を開ける。
開けたところで、しまった、と思う。読んでいたものを、とっさに背中に隠す。
「……お前、今、何か隠したな」
「え、何のことです? わかんないです私」
口笛を吹いてごまかそうとしたが、ソウザキ少佐は無視し、ちょっと見せろ、と言ってあっさりと私からそれを取り上げる。
「お前な。辛くて現実逃避したくなる気持ちはわからんでもないが、ここが踏ん張りどころなんだから、もっと真面目に……って、ありゃ?」
と、彼はそれを見て変な声を出す。
表紙に「機密書類」と判が押してあるそれは、私の機体の電子システムの設計図だ。紙媒体への出力に際して機密処理が施された二次資料。通常のマニュアルよりも詳細な情報が載っているその書類には、電子タグが埋め込まれており、申請外の場所――例えば、基地の外なんかに持ち出せば即座に憲兵が飛んでくる類の書類だ。
とっさに顔を反らすが、彼は言う。
「何だ、ちゃんと勉強してんじゃねえか」
「し――してないですよ。それはチャーリーが貸してくれたんです。だからたまたま手に持ってただけです。本当はそんなもん見たくもないです」
「アホ。又貸しなんざできるような代物かよ。お前、なんかこそこそしてると思ったら、こんなもん申請してたのか。この手のもんは手続きがアホみたいに面倒なんだから、俺に任せりゃ良かったのに。大変だったろ。頑張ってたんだな」
「が、頑張ってないです。私、適当にのんびり生きてます。あいあむすろーりぃ!」
「何で隠すんだよ。照れてんのか?」
「違います! 私は、やればできるけれどやらないだけです! ぐーたらです!」
「はあ? 何言ってんだお前? ちゃんとやってんのになんで――」
「違うんです――私は」
と、私は必死に告げる。
「私は、努力してないから駄目なだけです――努力してるのにちゃんとできない無能なんかじゃ、ないんです!」
「……ああ」
と、ソウザキ少佐はつぶやく。
「そういうことか。お前」
「本当に違うんです――だから、ソウザキ少佐が教えてくれれば、いつかちゃんと結果を出せます。無駄じゃないんです――私は、私はただちょっと怠け癖があるだけで、ソウザキ少佐が根性を叩き直してくれれば、努力できるようになって、そうすればきっとアリスにだって追いつけ――」
「馬鹿」
ぽこん、と頭を叩かれ、私は黙る。
「ありゃたぶん天才の類だ。お前がどんだけ努力したって同じようにゃできねえよ」
「ひぅ――」
聞きたくなかった言葉を告げられて、私は身体を震わせる。
震えて、途切れそうになる声で、尋ねる。
「わ、私は――私、じゃあ、やっぱり――い、要らない、んです、か?」
「どアホ」
「にゃーっ!?」
また、頭を叩かれた。
今度は割と容赦がなかった。
ぼこん、という感じだった。
「酷いです! 死者に鞭打つ行為です!」
私は、批難の目でソウザキ少佐を見上げる。
「一つ、面白い話をしてやろう」
見下ろすソウザキ少佐は何が面白いのか、にやにや、とした笑みで言った。
「俺たち有人機のパイロットってのは、言ってしまえば、空軍のエリートだ。そもそもが士官クラスの連中だし、山ほどの資格が必要だし、操縦からコールサインから規則から覚えることはクソほどあるから、お勉強ができなきゃお話にならんし、もちろん身体能力だって必要だ。そんな難関をくぐり抜けてきた連中、きっとそいつらは天才の集まり――そう思うだろ?」
「はい」
「違う」
「え?」
「全然違う。いや、確かに世間一般の基準じゃどいつも優秀じゃあるんだが、同じパイロットの立場で、実際一緒に飛んでみると『あ、こいつ才能ねえな』って奴は割といるんだな。これが」
「そ、そうなんですか? やっぱり努力が一番なんですね?」
「んにゃ、中には正真正銘、本気で天才としか思えねえような奴もいる。そういう奴に限って、性格最悪で、勤務態度はクソで、そのくせ女にはもてたりする」
「世の中不公平です!」
「その通りだよくわかったな偉いぞ――まあ、そういう天才共を見てると、こうも思うわけだ。『あ、俺もだ。才能ねえわ』ってな。で、凹む」
「……ど、どうするんですか」
「そりゃ決まってんだろ。諦めるんだよ」
「え」
「うん。そこはもう、諦めるんだ」
「諦めるんですか? そこはほら、必死の努力で超えようとするとか……」
「お前に一つ教えてやる。――『ちょっと他より上手くできる』なんて半端な奴じゃなくて、本当の本物のまじもんの天才ってのはな、こっちが100努力してできることを1の努力でできるような連中なんだ。そして、その上で1000くらい努力してきたりするんだ。殴りたくなることに」
「……諦めるしかないんですか。私」
「そういうことになるな」
「……セメタリー行きですか。私」
「そうは言ってない」
「……どういうことです?」
「パイロットになるために必要な数値を70とするだろ。で、あのアリスって娘は才能で100。たぶん、努力でも100くらい。まあ、余裕でクリアするわけだ」
「はあ……そうですか」
「で、お前の才能は1な。どん底だ」
「ふぁっきんっ! いじめですか!?」
「――つまり、お前は努力で六九取ればいいわけだ」
「……」
「お前の才能がどん底だと仮定してすら、あのアリスって娘のだいたい七割頑張るだけでいい。それくらいできるだろうし――ちゃんと、やってるだろ」
「……」
「なるほど、才能でも努力でも100を取ってくる天才ってのはいる。でもな、普通の連中なら70を取れりゃいいんだ。そりゃ理想は全部天才で固めたいところだろうが、どんな軍隊だってそうはいかない」
「……」
「そもそも、どんな天才的なパイロットだって、一人で飛んでるわけじゃない。僚機があって編隊があって、管制官がいて、整備士がいて、空母なり基地なりを維持してる連中がいて、飛行機を設計する人間がいて開発する人間がいて製造する人間がいて、燃料やら酸素やら部品やらその他諸々全部を揃えてくれる兵站があって、補給線の維持に協力してるPMCがあって、税金を出してくる国民だって必要だ。それを全部、天才で固めるのは不可能だ。場合によっちゃ、70以下の連中を使わなきゃいかん状況だってたくさんある」
「……」
「本当の天才は掛け値無しに天才で、凡人なんかが追いつけるようなもんじゃない――でも、どんな天才でも一人では絶対に成り立たない。孤高の天才なんてのは絶対に存在できない。そして天才は最悪いなくても構わないが、凡人は、どんなところにだろうと絶対に必要だ――わかるか?」
私は、しばらく黙って、言う。
「……さっき、天才はこっちの100倍の効率で1000くらい努力してるって言ってたじゃないですか。なら、アリスの努力が100だとして、私の努力なんて、0.001程度にしかならないんじゃないですか?」
「そんな細かい計算ミスは気にすんな。素直に騙されとけ」
「騙そうとしてるんじゃないですか……」
と、私は肩を落とし、それから、言う。
「私は賢いHAIです。ですから、貴方の言葉に騙された振りをしてあげましょう」
「偉いぞ。デイジー」
「少佐」
「何だ?」
「その……ありがとうございました」
「おう――ま、しかし、だ」
と、答えてソウザキ少佐は言う。
「このまま同じやり方を続けても、そうそう上手くいくもんじゃないだろうし――お前も大分フラストレーションが溜まってる頃だろ。だからな。デイジー」
悪巧みをする子どものような顔を私に向けて、少佐が言う。
「明日――ちょっと空を飛ぶぞ」
□□□
翌日。
真昼の太陽の下。
白く輝く滑走路の真ん中。
機体ではなくプライベートボディの方で私はそこに立ち、隣にはソウザキ少佐。
そして、目の前には航空機。
私の機体ではない。
それとは比べものにならないほどに旧式の機体――そもそも戦闘機ですらない。
複座式の、練習機。
ソウザキ少佐の片手はヘルメットを持ち、私の両手にもヘルメット。
見下ろす。
HMDなんて望むべくもない、ただのヘルメットだ。ゴーグル付き。電子機器の類は最小限の通信系のみ。
「――と、いうわけでだ」
と、隣に立つソウザキ少佐が私に言う。
「こいつで飛ぶぞ」
「嫌です。こんな骨董品――あうちっ!? なぜ叩くのですか!?」
「お前がこいつに失礼なこと言うからだ」
「……HAI制御には到底見えませんが」
「でもお前の大先輩だ」
ぽん、と機体の表面に手を置くソウザキ少佐。心なしか、私の機体よりも扱いが丁重な気がする。ヘルメットでがんがんっ、と殴ったりしてない。
「こいつはお前らHAIだのターミナルだのステルス機だのが生まれるよりもずっと前からある機体だ。ミサイル黎明期――下手するとまだ戦闘機が機銃でやり合ってた時代に生まれて、そこからの途方もなく長い期間を、改修に改修を重ねながら、数え切れないほどのパイロットを育て上げてきた。アグレッサーとして使われたり、宇宙飛行士の訓練に使われたりもしてな。そして、とうとう有人機が無くなる最後の最後までこうして使われ続けてきたわけだ――お前も航空機の端くれなら敬意を払え」
「私が敬意を払う旧式は〈ゼロ〉だけです」
「何でお前そんなナリでその機体が出てくるんだよ。そこはもっと別の……」
「戦闘機はドッグファイトに強くてなんぼです! 運動性こそ至高! ドッグファイトにおける格闘能力こそ戦闘機に求められる性能! 装甲? そんなもの戦闘機にとって飾りですよ!」
「ドッグファイトってお前――自分の機体を真っ向から否定する発言だぞそれ」
まあ、確かにその通りだ。
私たちの機体は、ターミナルを操作するための機体――つまりは指揮機だ。ターミナルに容易く撃墜されるようでは話にならないので、高水準の戦闘能力も有してはいる。しかしその基本コンセプトはドッグファイトからは大きく外れたところにある。
「ですが、ソウザキ少佐。ターミナルは高機動なので割と誘導弾を避けます。その後も猛スピードで突っ込んできますから、ドッグファイトが発生する可能性は結構高いですよ。そこでこう、機体性能とHAIの高度な空戦技術でもって、RAI制御の雑な飛び方をしてるターミナルのボンクラ共をばったばったと撃ち落とし――」
「そうなったら、離脱して後方から指揮を取るんじゃねえかな。普通」
「ろまんです! そんなつまらない、りありてぃーのある話は聞きたくないです!」
「まあでも、運動性っていうなら――こいつも結構なもんだぜ」
そう言って、内蔵されている梯子を引き下ろし、コックピットに乗り込むソウザキ少佐。私もそれに続いて乗り込――梯子に脚が届かない。
「みにまむ! 助けて下さい少佐!」
「あ、悪い。ほれ掴まれ」
と、ソウザキ少佐の手を借りて、散々苦労しながら乗り込む私。
「うぐぐ……、コックピットに乗るのってこんなに面倒なんですね……」
「俺たちの苦労がちょっとでもわかってもらえて嬉しいぜ」
「でも、今更ですが私ってこの機体に乗ってもいいんですか? こう、コックピットに乗り込むなら、免許とか資格とかが必要なのでは?」
「その点は抜かりない」
「ほわい?」
「備品扱いだから」
「ふぁっきん! こんな可愛い美少女を〈モノ〉扱いにしたんですか!? 酷い!」
「システムの穴を上手く利用したと言え」
ソウザキ少佐はそう笑ってヘルメットを被り、ハーネスを締めていく。
私は頬を膨らませつつ、コックピットの中を見渡す。
さすがに、ある程度の近代化改修はされているのだろうが、それでも私の機体に設置されているチープなコックピットに比べると、遥かに複雑で煩雑な作り。コックピットだけ見たら、あるいはこっちの方が最新式に見えるかもしれない。正直、人間の生温い記憶能力でよくもまあこんなものを動かせるものだと思う。
私は、ほー、だの、はー、だのと声を上げながらその辺をぺたぺた、と触る。
「さすがに旧式、ごちゃごちゃしてますね――あ、それ何でしょうか?」
「お前それ射出座席のハンドルだからな! 言っとくがこっちにゃ誤作動対策なんてないから引いたら即座に発射されるぞ絶対に触るなよいいかお前は何も触るなあと重ねて言うがちゃんと機体に敬意を払え!」
「い、いえす……」
凄まじい剣幕でまくし立てるソウザキ少佐に、私は素直に従う。コックピットに乗って空を飛ぶことについてはソウザキ少佐の方が圧倒的にエキスパートだ。
それに正直、こうして初めて空を飛ぶということに、私は緊張している。
それと言うのも――
「ソウザキ少佐。ソウザキ少佐」
「何だ?」
「ここだけの話ですが」
「ああ」
「実は私、空がちょっと怖くてですね」
「おいお前戦闘機だろ」
ソウザキ少佐が呆れるを通り越して軽く戦慄したような声で言うが、そんなこと言われたって怖いのだからしょうがない。だいたい、訓練をしたと言ってもフライトシュミレーション上のことだけで、私は空を飛ぶのは本当にこれが初めてなのだ。
「だって空ですよ。墜落したら死にます」
「俺はな。お前は死なないだろ。墜落前にブラックボックスに退避するんだから」
「今はそんなもんないです」
「いや、まあそうだが……でも、お前ら常に自分のバックアップ取ってるんだろ」
「バックアップから復帰とか嫌です。ほら、なんかこう、アイデンティティ的なものが揺らいだりとかそんな感じで」
「あのなあ、お前そんなんじゃこの先、撃墜でもされたら――」
と、ソウザキ少佐は言いかけて、不意に言葉を詰まらせる。いきなりだったので私はちょっと驚き、少佐に尋ねる。
「少佐? ど、どうかしましたか?」
「――いや、何でもない。ただ、お前が戦闘機だってことを思い出しただけだ」
「わっつ? どういうことです?」
「別に何でもねえよ……ああ、くそっ、俺もお前のこと馬鹿にできねえな」
そう言って、ソウザキ少佐は機体のエンジンを起動させにかかる。
端から見ていると、適当に動かしているとしか思えない手慣れた動き。がちん、ぎちん、とワイヤーが動く重い音と振動。それらが響く度に、私の乗り込んでいる機体が、少しずつ目を覚ましていくのがわかる。
起動のための準備を進めながら、少佐が私に言う。
「お前、ハーネスの締め方は――いや、分かるわけねえか」
「あ、分かりますよ。ほら」
「……お前、なんでそういうとこはちゃんとできるんだ?」
「安全第一です」
「さっき装甲は飾りだとか言ってただろ」
「安全第一でドッグファイトです」
「すまん。俺はその発言にどこからツッコミを入れればいい?」
「のーぷろぶれむ! 細かいことは無視してれっつごー、です!」
そう言って、私はヘルメットを頭から被――ツインテールが邪魔で入らない。
「……少佐。私備品扱いですし、ヘルメット無しじゃ駄目ですか?」
「安全第一はどこに行った」
「ツインテールを解いたら私もう飛べません! ただの鉄の塊です!」
「お前のその髪型へのこだわりは何なんだ……馬鹿言ってないではよ被れ」
「じーざす……っ! 少佐の命令とあらば仕方ありません……! でもこのことはずっと恨みますからね! 覚悟して下さい少佐!」
悲壮な決意と共に、私は赤色のリボンで纏め上げられた左右の髪を解く。
「アホか。一体、何を覚悟しろってん……」
こちらを振り向きながら、呆れたように告げられた少佐の言葉が途中で途切れ――そのまま、凍り付いたように少佐は停止した。
そのまま、一秒、二秒、三秒。
四秒目で、私は言う。
「……へ、変ですよね?」
肩に流れ落ちる長い髪の感触を疎ましく思いながら、私は、ヘルメット越しに向けられる少佐の視線にもじもじする。
硬直から復帰した少佐が、慌てたように、ところどころ声を詰まらせながら言う。
「いや、そういうわけじゃねえけどよ……」
「のー。そんな風に気を使って頂かなくても結構です。ツインテールじゃない私が、その……些か不細工なのは、ちゃんとわかっていますから」
「だから、そうじゃなくてだな……」
「……あ、あまりじろじろと見ないで下さい。わ、私だってこの姿は、その、は、恥ずかしいんです」
私の感情マップに反応して、プライベートボディの頬が赤色に染まっていることを自覚し、少佐の視線から逃れるようにちょっと顔を伏せながら、私は告げる。
ソウザキ少佐が何か、ぐ、と言葉に詰まったような声を漏らした。
それから、何かを必死に取り繕うような声で言う。
「へ、ヘルメット……ほら、お前、あれだ。その、ヘルメット被れ」
「分かりました」
頷いて、私は長い髪を束ねて押し込み、ヘルメットを被る。ツインテールでない姿を見られずに済んで、私はちょっとほっとする。
ソウザキ少佐も、何やら深々と溜め息を一つ吐いて、つぶやく。
「お前は、その……あれだ。いつもの髪型でいた方がいいな」
「ええ。やはり、ツインテールの私でなければ美少女とは言えないです」
「そうじゃなくて、今の髪型だとあまりに、その……いや、何でもない」
ヘルメット越しにこめかみを押さえるような仕草をして、何かを振り払うように頭をぶんぶんと振るう少佐。
「と、とにかく、エンジンかけるぞ。舌を噛まないようにだけ注意しとけ」
「いえっさー」
と私が頷くのと同時。
老骨に鞭を打つように、ぶるり、と機体が震えて老いた機体が目を覚ます。
低く唸るような振動。
エンジンの回転数が増していくのにつれて、それは大きくなっていく。
ついでに言えば、私の不安もそれに比例して増していく。
思わず、無線で管制室と幾つかやり取りをしている少佐に、私は尋ねる。
「あわわわわわわ……こ、これ本当に大丈夫なんですか……?」
「大丈夫だ。こと信頼性に関してはお前の機体よりも遥かに上だぜ」
「ゆ、揺れてます! めっちゃ揺れてますよ!? 揺れてるじゃないですか!?」
「これが普通だ。我慢しろ」
「だ、だだだ駄目です! 無理無理無理!」
「落ち着け」
「落ちるぅっ!」
「まだ飛んでねえっての――今からだ」
そして機体が前進を始める。急速に高まっていくエンジン音。加速していく機体。
「しょ、少佐……こ、こここ怖いです……」
「歌でも歌うか。気が紛れるぞ」
と言って、彼は「デイジー・ベル」を割と良い声で歌い始める。
ただし、知っているのは有名なコーラス部の歌詞の、しかも途中までらしく、ひたすらそれをリピートしている辺り適当過ぎる。それに正直、他人にその曲を歌われると小っ恥ずかしい気持ちになるのだ――しかし、怖くてそれどころじゃない。
速度が増していき、キャノピーの外の空気が重くなっていくのが、感覚センサーを通してはっきりと分かる。微かに聞こえる機体の軋み。
このままだと潰れる――本気でそう思った、その瞬間だった。
ふわり、と。
重力が消えた。
聴覚センサーが確かに捉えているはずのエンジンの唸り声を、ひどく遠いものとして感覚系が処理する中で、ソウザキ少佐の声が、
「デイジー」
――妙に、鮮明に記録されて。
「飛ぶぞ」
そして、水平方向へと流れていた視界が、垂直方向へと流れ出す。
直後、頭のてっぺんから降りかかり、シートへと身体を押し付ける力。重力が消えたわけがないのだと、そこでようやく気づく。それくらい、本気で錯覚していたことに驚く。
古ぼけた機体が滑走路から飛び立つ。
遠くなっていく地面。
ソウザキ少佐が歌っている。
コーラス部のその途中まで――例の映画の中で、AIが歌った部分までを歌って、そこからリピート。地味に良い声で、長閑な調子で――ちょっとだけ、寂しげに。
「少佐」
「ん」
「その歌が、世界で初めてコンピュータが歌った曲だと言うことは、ご存じで?」
「いや知らん。……そうなのか?」
「だから、あの映画の製作者たちは、あのAIにその曲を歌わせたのだそうですよ」
「やけに詳しいな」
「自分の名前の由来となった曲ですから。歌詞だって全部知ってます……いつか、機会があれば少佐に歌って差しあげます」
「お前に歌ってもらうには、ちょっとばかり縁起が悪過ぎやしねえか?」
「そんなことはありません」
少佐が操縦桿を傾ける。
それに答えて、機体がその内部機構を動かす。金属が立てる音と振動。
不意に大きくなる、エンジンの唸りと、機体の周囲を流れていく風の音。
機体が斜めに傾き、機首が少し上を向く。私から見れば、ちょっと驚くくらいに滑らかな動き。それを少佐とこの老いた機体は容易くやってのけ、私の身体をシートへと押しつける力が重さを増す。
機体が、ゆっくりと旋回を始める。
空の中で、その翼で、なだらかな弧を描いて回り出す。
キャノピーの向こう側。
下。
とっくに基地も滑走路も小さくなっていて、それらが設置されているメガフロートの全体が見渡せる。その向こうには水平線まで続く海。
そして、そのさらに向こう。
上。
視線を上げれば、そこにはもう、視界いっぱいの空だけがある。
空の青を彩る雲の白色が、ひどく近い。そのまま、雲に近づき突き抜けて、空の青色のさらに向こう側まで飛んでいけそうな。
そんな――ただの錯覚。
「少佐」
「おう」
「やっぱり、空、怖いです」
「そうか」
「でも、私――この機体みたいに、ちゃんと、空を飛びたいです」
私はそう少佐に告げて。
操縦席で、ヘルメットの中、ソウザキ少佐が笑う気配がした。
ちなみに。
このときの記録について、私は、飛行時における参照データとしての優先度をかなり低く設定している。
なぜって、それは私が、パーソナルボディの状態でコックピットにて備品として乗っていたため。つまりは戦闘機の搭載HAIとしての飛行とはちょっとどころでなく違っている。だから、そんなものの参照優先度を高くしておくと本来の飛行に支障が出かねない。まあ当然だ。
だから、このときの経験は私にとって、それほど有用な経験だったとは言えない。
それでも、私はこの記録を飛行時の参照データから外したことがない。
これからも、外すことはないだろう。
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