第1章 7 ヒルダの本音
会場であるレストランを出ると目の前はもう港である。5月の『ロータス』は清々しく、とても過ごしやすい季節だ。海からの潮風が心地よく吹き、空には美しい満月が浮かび、波打つ海にもその姿を映し出しキラキラと輝いている。
「綺麗…」
ヒルダはその光景に思わず目を奪われ、呟いた。そんな様子のヒルダを見てアレンは声を掛けた。
「ヒルダ。少し時間は取れるか?」
「え?」
「どうせ港は目の前なんだ。少し散歩でもしないか?足の具合さえ大丈夫なら」
「はい、足は平気です。それに主治医のアレン先生が一緒ですから」
ヒルダはこの港を散歩出来るのが嬉しくて笑みを浮かべた。紺色のドレス姿のヒルダはまるで夜を支配する美しい女神のようだった。
「そ、そうか。なら少し歩こう」
アレンはヒルダの美しさに思わず赤面し、フイと顔を横に向けて思った。
今が夜で良かったと―。
「ヒルダ。カウベリーにはいつ戻るんだ?」
港をゆっくり歩きながらアレンは尋ねた。
「はい、明日には戻ります。」
「1人で行くのか?」
「いいえ、今回はカミラも一緒です。フランシスが家にいるのでお休みしても良いと言われているので。でもそろそろカミラも自由にしてあげたいと思っているんです」
「ヒルダ?」
アレンは突然のヒルダの言葉に驚いた。
「カミラはずっと私の傍についていてくれたんです。故郷を追い出された時も私についてきてくれたし、卒業するまでずっと傍にいてくれました。それこそ恋愛もせずに…」
「…」
アレンは黙ってヒルダの話を聞いている。
「カミラも21歳です。私の望みはカミラが好きな人を見つけて結婚してくれる事です。私には叶わなかった事を…カミラには叶えて欲しいのです」
「ヒルダ…」
その時、アレンの目にベンチが見えた。
「ヒルダ。少し海を見ながら座って話をしないか?」
アレンはヒルダの足を気づかって声を掛けた。
「はい」
アレンとヒルダは並んでベンチに座った。ベンチに座るとヒルダは両肩を抱えた。
「ヒルダ、ひょっとして寒いのか?」
「あの、歩いているときは寒くはなかったのですが、こうして座ってみると海風が涼しくて…」
するとアレンは自分が着ている上着を脱ぐとヒルダの肩にかけた。
「アレン先生?」
するとアレンは言った。
「俺はヒルダよりは厚着してるからな。丁度上着を脱ごうかと思っていたんだ」
「ありがとうございます…」
「気にすることはないさ」
そしてアレンは海を眺めながらヒルダに尋ねた。
「ヒルダは…もう他の誰かと結婚を考えたことは無いのか?」
「…」
ヒルダは少しだけ沈黙すると言った。
「アレン先生…私は誰かを好きになってルドルフを忘れることが怖いんです」
「ルドルフは…私のせいで死んだんです。私が嘘をついたせいで故郷を追い出されて、真実を明らかにする為に…命を落としてしまったんです。だから私は彼を忘れてはいけないし、誰かと結婚することも出来ません」
ヒルダはぽつりぽつりとまるで自分に言い聞かせるかのように話す。その間、アレンは黙って話を聞いていたが、話が終わると口を開いた。
「ヒルダ。俺がもしルドルフの立場だったら…ヒルダには結婚して幸せになってもらいたいと思うよ。自分の事でいつまでも嘆き悲しまないで欲しいって。…好きな相手の幸せを祈るのは…当然のことだと思う」
「アレン先生…」
「そろそろ帰ろうか。どうも少し飲みすぎてしまったようだ」
自分で言っておきながら気恥ずかしい気持ちになったアレンはベンチから立ち上がるとヒルダに手を差し伸べた。
「行こう。ヒルダ。アパートメントまで送る」
「ありがとうございます…」
ヒルダはアレンにつかまると、その手をしっかり握りしめられた。
そしてヒルダはアレンに連れられ、アパートメントの前まで送ってもらうと上着を脱いでアレンに渡した。
「ありがとうございます。アレン先生。上着…暖かかったです」
「ああ」
アレンはヒルダから上着を受け取り、袖を通すと言った。
「じゃあな、ヒルダ。カウベリーから戻ったら、またバイトに来てもらえるか?」
「はい、勿論です。」
ヒルダは返事をするとアレンはニコリと笑った。
「おやすみ、ヒルダ」
「お休みなさい。アレン先生」
そしてヒルダは頭を下げるとアパートメントの中へ入っていった。そしてその姿を見送るアレン。
やがてアパートメントのドアが閉まる音が聞こえると、アレンはため息をつき…あることに気付いた。
「この香水…ヒルダの付けていた香水か?」
アレンはジャケットの襟を立ててヒルダの残り香を嗅ぐと、踵を返して自分の診療所へ向かって歩き始めた―。
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