第二話 胎動

 眠れない。

 いくら目を閉じても、寝返りをうっても、眠りに落ちない。

 仕方がないから水でも飲もうと思って部屋を出ると、玄関に姉がいた。

「……ねえちゃん?」

「なんで起きてくんのよ」

 不機嫌を隠そうともせず、押し殺した声で、姉が言った。姉はスーツケースを持っていた。

「何してんの」

「家出よ」

 ああ、そうか。姉は家出するのか。突然告げられたことなのに、なぜかおれは納得してしまった。

「朝まで気づかないふりしててよ。絶対」

 そう言って姉は、ドアを開けた。暗い夜空が見える。

「もう二度と帰らないから」

 ドアが閉まっていく。姉の姿が見えなくなっていく。

「        」

 言いたいことがあるのに、声が出ない。何が言いたかったのかも分からない。それでもなんとか口を開けようとする。

『次は、杜山もりやま高校です。お降りの方は降車ボタンを押してください』

 無機質な車内アナウンスが耳に入ってきて、おれはゆっくりと目を開けた。バスの車内はいつの間にか満席になっていた。窓の外には田畑が広がり、民家がぽつぽつと点在している。

 バスを降りると、ぬるい空気に全身を包まれた。バス停から校門へと続く坂道は、ジリジリというセミの鳴き声で満たされている。教室に向かって足が動くのに任せて、おれは姉のことを考えていた。

 二年前、書き置き一つを残して家を出て行った姉。それ以来、行方知れずのままだ。母は姉の家出に事件性があると信じて疑わず、父は話題に出そうとしない。今年、姉は二十三になるはずだ。どこで、何をしているんだろう。

 今日が終業式だからか、教室はどこか浮ついた雰囲気に満たされている。

末継すえつぐおはよー、これやってる?オレ昨日始めたばっかでさ、今フレンド募集してるんだけど」

 自分の席にリュックを置いた途端、クラスメイトの佐倉さくらがスマホをおれに向けてきた。画面には今話題のパズルゲームのタイトルが表示されている。

「それやってないんだよねー、スマホの容量ギリギリで。買い直したら入れるよ」

 おれは少しだけ申し訳なさそうな顔を作る。容量がギリギリだなんていうのは嘘だ。

「そりゃ仕方ない。じゃあまた入れたら教えろよー」

 佐倉は別のクラスメイトのところに行ってしまった。

『もう二度と帰らないから』

 教室のざわめきを押しのけるように姉の言葉がよみがえる。

 おれはリュックから文庫本を取り出した。本を読んでいる間だけ、頭の中を空っぽにできる。余計なことを何も考えなくていい時間は、とても満たされている。

 ページをめくる。開け放たれた窓から入ってくるセミの鳴き声も、女子の高い騒ぎ声も、たちまち遠のいていく。


 終業式後のホームルームは長引いた。ある生徒が持っていた携帯ゲーム機が、運悪く担任に見つかってしまったからだ。校則では携帯ゲーム機の校内への持ち込みは禁止されている。

「お待たせ、浦住うらずみ

「おーう」

 教室の外では浦住が待ってくれていた。浦住とは中学の頃からの付き合いがある。高校に入学した後も、おれたちはつるんでいる。

「ゲーム見つかったやつがいてさ。何で持ってくるんだろうね、見つかったら怒られんのに」

「ソイツにとって、怒られるかどうかなんてどうでもいいんじゃねーの?」

「そんなもんか」

「そんなもんだろ。さっ、お待ちかねのラーメン行こうぜー!」

「おう。……あっ」

 浦住の言葉で、おれはリュックの中の物の存在を思い出した。

「あのさ、昨日母さんに弁当いらないって言ったんだけど、忘れられてたみたいで……ソッコーで食うから、ちょっと待ってもらってもいいかな」

「あー……それは断れないよな。オッケー、屋上行こうぜ!俺もジュース買って来るわ」

「ごめん浦住」

「気にすんなって」

 浦住がニッと笑う。そこにおれへの批難はなく、申し訳なさが薄れていく。

 屋上に座り込んで、中一の時から使い続けている弁当箱を開ける。

「うっわ、相変わらず緑だなお前の弁当」

「照り焼きと卵焼きが本日のタンパク質担当かぁ」

 正直、食べ盛りの身としては少々物足りない分量だ。しかし、弁当箱のサイズが変わることはない。

 白米を口に突っ込むおれの隣で、浦住はパズルゲームをやっている。

「新ステージいったんだ。おめでとう」

「いやー結構きつかったわ。てか今やってんのもきついんだけど、あっ時間やべえ」

 画面が暗転し、「GAME OVER」と表示される。

「おれやろうか?」

「任せた……」

 浦住からスマホを受け取り、画面に指を滑らせる。スマホにゲームを入れられないおれに、昔から浦住はゲームをやらせてくれていた。どうもおれは飲み込みが早いようで、ゲームによっては浦住よりも得意なものもある。

「はい、クリア」

「サンキュー。コツとかある?」

「コンボ途切れないようにすることと、時間延長できるブロックはなるべく回収することくらいかな」

 おれは空になった弁当箱の蓋を閉じた。ブルっとスマホが振動する。ホーム画面にネットニュースのポップアップが表示されていた。

「また地震だって。今度は鹿児島で、震度は……四か」

「最近地震多くね?こないだもさ、大きいやつあったじゃん。あれどこだったっけ」

「福井だったかな」

「そうそう。この一ヵ月大きいやつ続いてるから、そろそろこの辺も来るんじゃないか心配になるわ」

 そう言って浦住は立ち上がった。おれもリュックを背負う。弁当が空になった分、少しだけ軽い。

「よしじゃあ今度こそラーメン行くか!」

「おう」


 駅前に先週開店したばかりのラーメン屋は、昼時を過ぎていたからかすんなり入ることができた。こってりとした豚骨スープはおれの舌に合っていて、また行きたくなった。

「末継はこれからバイト?」

「うん。バス乗って行くんだけど、時間まだ結構あるなぁ」

「どれくらい?」

「三十分くらい。そうだ浦住、おれ本屋行きたいんだけど、お前もなんか買うものある?」

「あるある!こないだ出た漫画買おうと思ってたんだわ」

 駅直結のショッピングモールには、大型書店も入っている。浦住は漫画コーナーへと姿を消した。おれは文庫本コーナーに足を向ける。

 今月発売された新刊が平積みされている。そこからおれは一冊取り上げた。

 芦家松音あしやしょういん作『東雲しののめ墓標ぼひょう』。

 表紙には茜色をした明け方の空と、それに向かって立つ二つの小さな人影が描かれている。

「すえつぐー」

「うん?」

 いつの間にか、隣に浦住が立っていた。今話題の少年漫画の最新刊を手にしている。

「売り切れてなくて良かったわ、ほんと。それは?」

「芦家松音の新作だよ。今出てる『草枕物語くさまくらものがたり』シリーズの最新巻」

「昔っから読んでるよな、そのシリーズのやつ。読んでて飽きてきたりしねーの?」

「しないんだよねこれが。『草枕物語』は鎌倉時代とか戦国時代とか色んな時代を舞台にしてるんだけど、巻ごとに時代と主人公以外の登場人物が変わるから、毎回新鮮な気持ちで読めるんだ」

『草枕物語』シリーズは六年前、二〇一三年に平安時代を舞台にした第一巻『黎明れいめいの小松』から始まっている。以降毎年一巻ずつ刊行され、最新巻となる第七巻ではついに幕末が舞台となるようだ。おれは浦住に、基本的に一巻完結形式で、巻順に読まなくても分からなくなることはほとんどないことを話した。

「じゃあ前の巻で新しく出てきたキャラが次の巻に出てくることはないんだな。ってか、主人公長生きしすぎじゃね?」

「そう。主人公は双子の姉弟なんだけど、普通の人間ではなく、人間と『怪異』……妖怪みたいなものだと思ってくれていいよ、このハーフなんだ。そのせいか、二人ともどんな傷もすぐに治り、普通の人よりも遥かに長く生きられる体質なんだ。それに、色んな不思議な術を使えて、自分の容姿を自在に変えることもできる。同じ所にずっと住んでいて、しかも遥かに長生きをしていると、周りの人々からは不審な目で見られてしまうだろ?だから、術を使って姿を変え、住処を変え、時にはあちこちを旅してまわるんだ。『草枕物語』はそんな二人の生き様を描いているんだよ」

「へー、結構ファンタジーなんだな。面白い?」

「面白いよ。毎回、怪異に関係する事件に遭遇した双子がそれを解決するんだ。おれはその過程を楽しんでる。それに、その時代の歴史上の人物が登場するから、双子とどう関わっていくのかも楽しみの一つかな」

「歴史上の人物かー」

 おれは心の中でガッツポーズをした。浦住は歴史ドラマが好きだ。それも時代に偏りはなく、どの時代を舞台にしたものでも楽しんで観るらしい。

 もしかしたら興味を持ってくれるかもしれない、とおれは思った。

「それさ、読みやすい?」

「うん。文章は読みやすくて、幅広い年代から人気を得てるみたいだね。それに、『ファンタジーだ、子供向けだ』って言う人もいるけど、おれはそうは思わないな」

「なんで?」

「主人公の双子は長生きな上に怪我の治りも早い。もしかしたら不死身に近いのではないかと自分たちでも思っている。だから、『限りある生の中で何をするか』というような目標が立てられないまま、ただ暇潰しのような人生を送っているんだ。でも、人と関わらずに生きていく孤独に耐えられず、かと言って関われば自分たちと他人との死生観の差を思い知らされる。その上、時には『普通と違う』ことを理由に迫害されたりもする。シリーズを通して、双子の『他人と関わる事の喜びと苦しみ』が丁寧に描かれているから、割り切れない双子から目が離せないし、読んで色々考えるんだ」

「なんか、すげーな。でも、文章が読みやすいなら俺でも読める気がするぞ」

「読んでみる?良かったら貸すよ」

「お、じゃあ今度借りるわ!」

 気付けばバスの時間が迫っていた。おれは急いで会計を済ませる。

「あのさ末継」

「なに?」

「夏休み中、いつでも俺ん家来ていいからな!兄貴が一人暮らし始めたから漫画も読み放題!」

「最高だね。ありがとう」

 浦住は祖母と一緒に暮らしている。浦住が中学に上がった後、親の単身赴任が決まったという。「お客さんがいると賑やかで寂しくないから」という理由で、浦住の祖母はいつもおれの訪問を歓迎してくれる。

「じゃ、またな」

「おう。また連絡するよ」

 浦住に別れを告げて、おれはバスに乗り込んだ。


 戸建てとマンションが混在し、その合間に児童公園や小さな神社があるような地域。オートロック、管理人常駐、宅配ボックス付き、そんなマンションの一室がおれの「バイト先」だ。

 部屋のドアをノックする。返事を待たずにおれは合鍵を使った。玄関を抜け、リビングに入る。少し蒸し暑い。床には本棚に収まりきらなかった本のタワーが何本も建っている。

かなめさん、来たよ」

「はいはい」

 奥の部屋から、よれたTシャツと半パン姿の男性が現れた。徹夜していたのか、目の下にはクマができている。

 吾妻あづま要。おれの母方の叔父にあたる。とはいえおれの母も要さんも、吾妻家では特殊な立場で、おれと要さんに血の繋がりはない。

 おれは幼い頃から要さんにお世話になってきた。二十も離れていないので、おれにとって要さんは「叔父」というより「少し年の離れた兄」だ。

 おれのバイトは、仕事で忙しい要さんのために、週に何回か来て一、二時間ほど家事を手伝うことだ。時給は千百円。高校に入って、おれのスマホから「杜山市 バイト 求人」という検索履歴を見つけた母が「バイトしたいなら要の所で働かせてもらうといいじゃない」と言ったのがきっかけだ。すぐに部屋を散らかす要さんに、母は昔から呆れていたらしい。

「今日は?何したらいい?」

「洗い物と、あとリビングの掃除をお願いしていいかな?僕は部屋で作業してるから、何かあったら声掛けて」

「了解。あっそうだ要さん、『東雲の墓標』買ったよ」

 要さんは照れくさそうに笑った。

「わざわざ買わなくても、言ってくれたらあげたのに」

「いいんだ。文庫本くらいならおれでも出せるから」

「そうかい。読み終わったら感想を聞かせてよ」

要さんはそう言ってリビングのエアコンをつけると、部屋へと戻っていった。

 奥の部屋が要さんの「仕事場」だ。要さんはそこで小説を書いている。

 十年前、『天狗の子』で鮮烈なデビューを飾って以降、『極寒の地にて』『王都異聞録』『草枕物語』シリーズ等の作品を世に送り出してきた作家、芦家松音。その正体が要さんだ。

 まだ二十代後半ほどに見える整った容姿で、ネット上では作家本人への人気も高い。雑誌に対談が掲載されると、その号が売り切れることもあるという。ただ、実生活については徹底して伏せられている。

 床の上の本の塔の群れを見て、おれはため息をついた。こんな部屋の様子がファンに知られたら、幻滅されるかもしれない。

 キッチンに積み上げられた洗い物を手早くすませ、おれはリビングの掃除に取り掛かった。本の塔は一見乱雑なように見えて、ジャンル別に積み上げられている。塔同士のジャンルが混ざらないようにしながら、リビングのスペースを空けていく。掃除機をかけ終えた所に塔を移動させ、そうやって空いた所にまた掃除機をかける。動かしているのはおれなのに、まるで塔の群れ全体がひょこひょこ動いているようだと思い、おかしくなってしまった。

 リビングの掃除を終えた頃、要さんが部屋から出てきた。

「おつかれ、あきくん。コーヒー飲む?」

「うん。……ねえ要さん、『草枕物語』の双子の横笛よこぶえ檜扇ひおうぎって名前、元ネタとかあるの?」

 おれはふと頭に浮かんだ疑問を口にした。要さんはポットで湯を沸かしている。

「いやー、どうだったかな。適当に姉を『横笛』、弟を『檜扇』にしたんだと思う」

「適当って……」

「まあ適当って言ったけどね、元々笛というのは男性の代表的な楽器だったんだ。ほら、『草枕物語』でも横笛が笛を演奏するシーンを入れてるけど、人々が見ていないところでしか演奏していない。あれはそういう時代背景があったからなんだ。ぼくにとって横笛はヒーローで、いつだって弟より先に立って怪異に勇敢に立ち向かったり人々を助けたりする。だから『横笛』という名前が浮かんだのかもね。あ、ちなみに『平家物語』の滝口入道と横笛の話は関係ないよ」

 コーヒーの香りが漂ってくる。

「じゃあ、『檜扇』は?」

「檜扇は、顔を隠すイメージかな。檜扇は恥ずかしがり屋で、臆病だろう?いつも姉の後ろに隠れている。だから『檜扇』なんだ」

「ふぅん……」

 氷がカランと鳴る。おれの前にアイスコーヒーのグラスが置かれた。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 コーヒーを飲んでいると、要さんがポケットからスマホを取り出した。

「そうだ、あきくんに見てもらいたいものがあるんだよ」

 差し出されたスマホの画面には、SNSの投稿が表示されていた。

『家の裏山でなんか鳴き声?しよるんじゃけど……なんじゃろ……鳥……?』

 そんなコメントと共に動画が添付されている。再生ボタンを押すと、数秒間、風の音が聞こえてきた。そして急に、口笛のような音が三秒間ほど続き、次第に小さくなった。「鳴き声」はその後も何度か続き、一分ほど経ったところで動画は終わった。

 投稿は昨夜の二十一時頃だ。返信には「鹿?」「えーめっちゃ怖い!今日寝れない(泣)」「トラツグミっぽくないですか?地元で聞いたことあります」などと寄せられている。

 この投稿がどうかしたというんだろうか。

「あの、要さん。これは?」

「これ、なんだと思う?」

「なんだと思うって……鳥?リプ欄にもトラツグミってあるし」

「うん。トラツグミの声なんだと思うよ。ところで、あきくんならトラツグミと聞いて連想するものがあると思うんだけどね」

「トラツグミ……え、まさか」

 おれの脳裏に、トラツグミに似た声で鳴くとされる、猿の顔、狸の胴体、虎の手足、蛇の尾を持った生物の姿が横切った。

ぬえ?」

 鵺。それは怪異の名だ。『平家物語』には、源頼政みなもとのよりまさによる鵺退治の様子が描かれている。御所の上に黒雲が覆いかぶさり、近衛天皇が恐怖していたため、弓の名手である頼政が呼ばれ、見事これを射たという話だ。射られた鵺は丸木舟に入れられ、流されたのだという。

「そう」

「いや、そうって……。鵺は実在しないよ」

 要さんは目を細めた。

「そうだよ。怪異は存在しない。でも物語の中では存在したって良い」

「これを次の話のネタにでもするの?」

「その通り。というわけで、あきくん、夏休みにぼくのネタ集めに付き合ってくれるかな?もちろんバイト代は出すしさ。こういう怪異の話、好きでしょ」

「まあ、好きだけど」

 否定はできない。怪異が存在しないことくらい、十分に理解している。とはいえ、そんな摩訶不思議な世界への憧れがあるのは事実だ。

 存在しないと分かっているのに―――いや、存在しないと分かっているからこそ、強く惹かれてしまう。

「でも、父さんがうるさいかもしれない。最近、おれがバイトに行くのを快く思っていないみたいで、勉強しろってずっと言われててさ。あっでも、平日の昼間なら手伝えるかも。仕事でいないし」

「ふむ。まあ依子よりこさんの方には僕から話しておこうか。『夏休みの間だけあきくんのバイト週三回に増やしてもいいかな?』って。依子さんなら反対はしないだろうからね」

 要さんは母のことを「姉さん」ではなく「依子さん」と呼ぶ。

「ありがとう。手間取らせるけどごめん、要さん」

「気にしなくていいよ。夏休み、ずっと家にいるのは息が詰まるだろう」

「うん」

 夏休み中、ここにバイトに来たついでに、足を延ばして浦住の家にも行けるかもしれない、とおれは考えていた。

 ふと時計を見ると、五時を指していた。

「そろそろ帰らないと」

「気をつけてね。夜は危ないよ」

「要さんいつもそれ言ってるけど、おれ男だよ」

「危険なものには、男も女も関係なかったりするんだ。はい、今日のお給料」

「ありがとう。要さんも今日はよく休んでね。目の下、クマできてるよ」

「ちょっと色々と調べ物をしててね。明日は昼まで寝ることにするよ」

 要さんはマンションの下まで送ってくれた。さよならと手を振って、おれは帰路についた。


 家に帰ると、玄関に父の靴があった。帰りのバスに乗り遅れたのはまずかった、とおれは後悔する。心の中に、凪いだ海をイメージする。

「ただいま」

 玄関につながる廊下に声をかけると、リビングから母が顔を出した。

「晩ご飯もうできてるから、早く手を洗ってきて!」

「はい」

 自室にリュックを放り込んで、手洗いうがいをすませてリビングに向かう。

「またバイトか、観人あきと

 入るなり、父の低い声が飛んできた。

「はい」

 でも門限は守った、と心の中で思う。

「もう、早く皿運んで」

 キッチンから母の声が飛んでくる。キッチンに行こうとするおれの肩を父が掴んだ。

「俺の話が先だ。もう高二だぞ、バイトなんかやってる暇ないだろう。そんなんだと城戸きど大学に落ちるぞ。中学にも高校にも落ちて、大学まで落ちる気なのか?」

 城戸大学は父も姉も行けなかった大学だ。いつから父が城戸大学の名前を出すようになったのか、もう覚えていない。

「そんなの食事中でもできるでしょ!せっかく作ったのにご飯冷めるじゃない!」

 母の声に苛立ちが混ざり始めた。父は渋々、といった様子で手を離した。

 今日の夕食は白米、野菜たっぷりの味噌汁、サラダ、豚の生姜焼き、酢の物らしい。栄養満点、一分の隙もない完璧な夕食だ。おれはそれをリビングへと運ぶ。

「それで、そろそろバイト辞めたらどうだ」

 食卓につくと、まず父が口を開いた。

「バイトくらいいいじゃない。この前の期末の結果も良かったんだし」

「油断してると成績は下がるんだ。だいたい、なんでお前も要の所で働かせたんだ?あんな素性も分からない、くだらないものばかり書いて、未だに結婚もしていないような男なんて信用できん」

「要を悪く言うつもり?」

 母が皿に箸を叩きつけた。

 二人の言い争いの中、おれは黙って完璧な夕食を口に運ぶ。舌の上を「おいしい味」だけが通り過ぎていって、さっき自分が何を食べたのかなんてすぐに忘れていってしまう。

「声が大きい、隣の部屋に聞こえるじゃない」だの「うるさい、お前の声の方が響く」だの、言い争いの方向は次第にずれていく。

 早くここから離れよう。おれは残りの夕食をかきこんで、お茶で喉に流し込んだ。

「ごちそうさま」

 食器の汚れを少しでも洗い流しておこうと蛇口をひねると、水音に母が反応した。

「私がやるから放っておいて」

「はい」

 足早にリビングを出る。自室に戻ったところで、今日は弁当を持たされていたことを思い出した。

 少し時間をおいて、部屋のドアを開けて耳をすませる。言い争いは終わったのか、リビングから両親の声は聞こえてこない。

 弁当箱とバイト代が入った封筒を持って戻ると、母は洗い物をしていた。父はテレビを見ている。

「ごちそうさま」

「おかず、傷んでなかった?」

「大丈夫だったよ」

 それより、弁当箱を大きいものに変えてほしくて―――そう言おうとしたのに、喉がきゅっと締まる。

「なに?」

「あ、いや、なんでもない」

「観人」

 父から声が掛かる。

「バイトを辞めるかどうかは、二学期の中間の成績を見て決めるからな」

「……はい」

 どうやら母が押し切ったようだ。父はかなり不服そうな顔をしている。

 おれはテレビ台から箱を出して、封筒を入れた。おれのバイト代は、ここに貯めていって、ある程度貯まればおれの銀行口座に移される決まりだ。

「勉強してくる」

 それだけ言って、おれはリビングのドアを閉めた。自室の前まで戻って、ふと向かいの部屋に目をやる。ドアをそっと開けた。

 マットレスだけのベッド。何もかかっていないハンガーラック。時が止まったような部屋で、壁掛け時計だけがカチコチと音を立てている。

 おれは音を出さないようにドアを閉じた。

 自室に戻ると、少しだけ心が落ち着いた。いつから週の半分は怒声の中で食事をする生活が始まったんだろう。怒声が聞こえると「またか」と思う一方で、心臓は早鐘を打ち始める。

 姉に城戸大学に行けと言い続けて、姉が落ちたら今度はおれに同じ事を言い始めた父。おれのスマホを勝手に見て、ロックをかけると怒りはじめる母。

いつの間にか、この家でおれは、自分の言いたいことさえも言えなくなってしまった。弁当箱一つを買い替えてほしい事さえも言えないなんて、情けなくて涙が出そうだ。

 この家はおかしい。昔、浦住に言われて、おれは自分の家がおかしいと気付くことができた。姉が出ていって、「出ていく」選択肢が存在することを知った。でも今のおれの行ける先なんて、学校か要さん、浦住の所くらいしかない。だから県外の大学に進学したいけれど、それも受け入れられるのか分からない。

「ねえちゃん、今どこにいるんだよ……」

 家出以降、姉は一切連絡を寄越さない。電話もメールもメッセージアプリも、すべて受信拒否されているようだ。

 小さい頃は、仲が良かったはずだ。おれが中学生になった辺りから、段々会話が無くなっていった。気が付けば、おれ一人がこの家に取り残されている。

 おれは自分の部屋を見回した。ゲーム機も、漫画もない部屋。小説や新書だけが本棚を埋めている。

 学習机に教科書とノートを開き、スタンドライトを点けた。足元にリュックの口を開いて置いておく。

要さんが芦家松音として活動していて、本当に良かったと思う。中学に入ったおれに、「そろそろあきくんも読める頃じゃないかな」と要さんが『草枕物語』シリーズを渡してくれて、そこからおれは本が好きになった。本を読んでいる間だけ、頭から現実は遠ざかり、作品世界を存分に楽しむことができる。それはおれにとって至上の娯楽だ。

 リュックから『東雲の墓標』を取り出す。ページを開けば、おれの知らない時代と、双子の活躍が待っている。耳にだけ意識を残して、おれは未知の世界へと飛び込んでいった。



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