第3話
ジンジンと痛む右手を左手で押さえ、エミリアはその場で茫然自失になっていた。自分は今何をやったのか。なんでこんなことをしたのか。不安と後悔と焦りと苛立ちでほとんどパニックだ。
セストもまさか物理攻撃をお見舞いされるとは予想しておらず、殴られた頬を手で押さえて目を見開いて固まっている。
ふたりだけではなく、現場を目撃してしまった生徒のほとんどが固まっていた中で、最初に動き出したのはランドルフだった。さすが王太子だ。
それに気づいたエレナは、急いでエミリアの腕を掴んで引っ張った。
「エミリア、早く教室に行かないと」
「で……でも、私」
「いいから。まずはいったん教室に行って落ち着きましょう。ここは人が多すぎるわ」
エレナに言われて周囲を見回し、すっかり注目の的になっていることとランドルフが近づいてくることにようやく気付いた。
ともかくその場から逃げ出したくて、エミリアは腕を引かれるまま小走りでその場を後にした。
「どうしよう。殺されるかもしれない」
ふたりが向かったのは校舎の隅にある階段の陰だ。突き当りのここまでくる生徒はほとんどいない。
「何言ってるの? そんなことあるわけないでしょう」
「相手を殺せば新しい恋が出来るんでしょう? 私が断ったから……」
「断ってないわ。あなたは殴っただけよ」
殴ったのが断りの意思表示になると思ったエミリアだが、もしかしたら恥ずかしがっただけとか、脅されたと勘違いしたのだと思ってくれるのかもしれない。
「それにあなた、今までバージェフ様とお話したことなかったんでしょう」
「そうよ。この前助けた時に少しお話しただけよ」
「名乗ってないのに名前を呼んだのよ。許可してないのに呼び捨てよ。いくら相手が侯爵子息でも怒っていいはずよ」
「殴っても?」
「それは……突然プロポーズなんて非常識なことをしたんですもの。第一、王太子殿下の護衛をするバージェフ侯爵家の子息が女の子に殴られるなんて、情けないわ」
「……余計にまずくない?」
あまりに突然の出来事に思わず手が出るのは、冒険者と一緒にダンジョンに籠っていたせいかもしれない。攻撃は最大の防御だ。ただし時と場合による。
自分をたいして知らないくせに恋に落ちたセストが、エミリアには信じられなかった。いったい自分のどこが気に入ったのか、あの時の会話のどこにそんな要素があったのか全くわからない。
もしかしてあれは痛みをなくすおまじないではなくて、恋に落ちるおまじないだったのだろうか。
どちらにしても、あんなに大勢の生徒がいる中で、挨拶すらしないで結婚してくれなんて言ったのは、断られると思っていなかったからだろう。
実際、断れるわけがない。相手は侯爵家嫡男で、ランドルフまで味方についている。光栄に思って、頬を赤らめて申し込みを受けるのが、伯爵令嬢としての正しい態度だったのかもしれない。
「終わった」
これでエミリアを取り巻く環境は、全く変わってしまうだろう。
互いに少しずつ相手を理解して、距離を縮めていくような穏やかな恋愛は、きっともう出来ない。
「でもバージェフ様は、本気であなたを愛しているでしょう。あの声とあの眼差しは、私に向けられたものじゃなくてもドキドキしちゃったわ」
それも苛立ちの原因だ。
リーノに憧れているとさんざん言っていたくせに、あの掠れた声と甘い眼差しに腰砕けになりそうになったのだ。エミリアは自分が信じられなかった。
「ともかく教室に行きましょう。今日は予定の確認と選択講義の申し込みだけですもの。帰って伯爵に相談した方がいいわ。心配だからラウル様にも事情を話して一緒に帰ってもらいましょう」
「ありがとう、エレナ。あなたが一緒にいてくれてよかった」
「やあね、何を言っているのよ」
一年の教室は三階だ。身分や成績を考慮してクラスわけがされていてエミリアもエレナもAクラスだった。
あの場で目撃していた生徒は、今のところ教室内にはいないようだ。席は自由なので、壁際の端の方にエレナと並んで座ることにした。
「おはよう。マルテーゼ嬢」
あまりの衝撃に忘れていた。そういえばこの教室にも事情を知る男がいたのだった。
「おはようございます。ルイーニ様」
改めて顔を見ても、メガネと冷ややかな顔つきのせいであの時とは別人に見える。でも目だけ、髪だけに注目すれば、間違いなく同じ人間だ。
「セストに会ったかい?」
「……はい」
「そうか。おめでとうと言うべきかな」
馬鹿にしたような、どう見ても好意的ではない態度だ。それにエミリアがセストの申し出を喜ぶと疑っていない。パニックが収まると同時に、エミリアの気持ちは急激に冷えていった。
「いったいどんな手を使ったんだい? まさか彼がきみを選ぶとは思わなかったよ」
「私も思っていませんでした」
そっぽを向いて椅子に座る。これ以上話す気はないと知らせるために、ノートを広げ筆記用具を取り出した。
「……あまり乗り気ではない?」
「ルイーニ様、いくらなんでも失礼ですわ」
「いいのよ、エレナ」
これは思っていたのと状況が違うようだと理解したのか、リベリオは顔色を変えた。
「まさか断る気か?」
「そんなことは出来な……いえ、まだ何も考えていませんわ」
「もう教師の方がいらっしゃるわ。話はまた今度でよろしいかしら」
腰に手を当てて立ち上がったエレナが、エミリアとリベリオの間に立ち塞がった。
「一度にいろいろなことがあって、彼女には時間がいると思うの」
「いろいろなこと?」
「殿下に声をかけられて注目の的になったり、突然プロポーズされたり」
「はあ?!」
新たに教室に入ってきた生徒の中に、現場に遭遇した者がいたようだ。ちらちらとこちらに視線を向けてくるが、リベリオがいるためにエミリアに話しかけられないのだろう。だが同時に、リベリオの存在が余計に騒ぎを大きくしているとも言えた。
「なんで、そんなことになったんだ?」
「私が聞きたいですわ。この先学園で彼女がどんな立場に立たされるか、全く考えてくださらないんですもの」
「あいつらは何をやっているんだ」
ランドルフやセストが大勢の生徒がいる前で、普段目立たない生徒に親し気に話しかければ、エミリアに嫉妬する者もいるだろう。セストが惚れた相手が彼女だと知られたら、更に騒ぎは大きくなる。現にこの短時間の間にも、クラスの中に話がどんどん広まりつつある。
「教師が来るまでここにいる。そうすれば群がられなくて済むだろう」
「……ありがとうございます」
なぜさっきまで敵意を向けていたリベリオが、エミリアを守る気になったのかはわからない。だが、彼の存在が今は非常にありがたいので、エレナは礼を言ってエミリアの隣に腰を下ろした。
「ごめんなさい、私のせいで」
「あなたは何も悪くないでしょ。むしろあなたは恩人のはずよ。嫌味を言う前にお礼を言うべきよ。ねえ?」
ランドルフから始まってセストにリベリオと、幼馴染に対する男性陣の態度に、エレナは本気で怒ってしまっている。リベリオに憧れていたことも吹っ飛んでいるようだ。
「そ、そうだったな。すまない」
「いえ。もういいです」
教師が来るまで、居心地悪そうに俯きながら、それでもリベリオはエミリアの傍に立っていた。
新学期一日目の連絡伝達と今後の予定の確認は一時間ほどで終わった。あとは選択科目の受講を希望する生徒が、申し込みの書類を提出するだけで今日の予定は終わりだ。
エミリアは仕事や研究があるので、選択科目はいっさい取っていない。さっさと帰ろうと荷物をまとめていると、リベリオが近づいてきた。
「余計なおせっかいかもしれないが、今、きみの弟を呼びにやっている。提出する書類があるなら彼女に頼んで、今日は早めに帰った方がいい」
「はい。あの、いろいろとありがとうございます」
「いや……先程、失礼な態度を取ってしまったからな」
エミリアが頭を下げると、リベリオは居心地悪そうに視線をそらした。
エレナに怒られたのが堪えているのかもしれない。
「エレナは選択科目を受けるの?」
「ええ。あなたは受けないわよね。だったら……」
急に教室の入り口が騒がしくなった。嫌な予感がしてそちらに向かいたくないが、行かなくては帰れない。
「マルテーゼはいるか?」
聞こえてきた声に、エミリアだけではなくリベリオも頭を抱えた。
「政治経済に関しては切れ者なのに、どうしてこういう時はアホなんだ」
ランドルフに対して聞こえてはいけない単語が聞こえたが、エミリアは視線をそらして気付かなかったことにした。
教室でのリベリオの態度は、本来の彼の性格とはだいぶ違うようだ。やはり先日の眼鏡をかけていない時の彼のほうが素なんだろう。
「ともかく行くぞ。放置しておくと余計に騒ぎが大きくなる」
「ええ」
リべリオのすぐ後ろを歩いて出口に向かう。心配したエレナが、ラウルが来るまで一緒にいてくれることになった。
ダンジョンで魔獣の目の前に立ってしまった時より、クラスメイトの視線の方が怖いかもしれない。明らかに敵意の含まれた視線もひとつやふたつではなかった。
「よかった。まだいたか」
「エミリア」
「ふたりとも何をしているんですか。邪魔ですから教室の入り口に立たないでください」
リベリオはランドルフとセストをぐいぐいと押して教室を出て行く。遠慮のなさに驚きながら、エミリアとエレナも急いで教室を出た。
「どうしたんだ、リベリオ」
「あなたが顔を出したらどうなるかわかるでしょう。明日から彼女は興味と妬みの的ですよ」
「……いや、だが今回は」
「ちょっと待っていてくれ」
早く帰りたいエミリアは、リベリオとランドルフが揉めているうちに帰ってしまおうと思ったが、セストに止められた。
「私は帰らないと……」
「この騒ぎは俺のせいだ。護衛をつける」
「……は?」
「ジーナ!」
教室の中に顔だけ入れて、セストが呼びだしたのは青い髪の背の高い女生徒だった。
「今日から学園にいる間、エミリアを守ってくれ。今夜にも正式にうちから依頼をかける」
「承知しました」
「教室にはリベリオがいる。ふたりなら問題ないな」
「はい」
「行き帰りや昼用に、明日までにもうひとり誰かつける。エミリア、ひとりで行動はしないでくれ」
身を守ろうとしてくれるのは正直ありがたい。でもそもそも、彼女が目立ってしまったのはセストのせいだ。
それに同級生が命じられて、当然のように護衛につくという関係がよくわからない。彼女はバージェフ侯爵家の関係者なのだろうか。
「エミリア、聞いているか?」
「……名前で呼ばないでほしいです」
「え?」
「名乗った記憶がありません。呼び捨てにされるほど親しくもありません」
「おい」
「殿下はこちらへ」
「なんだよ」
会話を聞いていたのだろう。話に割って入ろうとしたランドルフを、リベリオが止めて連れていった。
「先程は殴ってしまって申し訳ありませんでした」
「いや、あの時は……俺が悪い。やっと会えて嬉しくて、つい」
この男は、つい、でプロポーズするらしい。
だが素直に謝られてしまうと、それ以上文句が言えなくなってしまう。
エミリアを冒険者だと思っていたのなら、いろんな場所を捜したのかもしれない。
「姉上!」
「ラウル、来てくれたの?」
「いったいどうなってるんだよ」
「話は馬車の中でするわ」
弟を急かして歩き出すと、当然のようにジーナがついてくる。この何分かで廊下に人が集まり、少し離れた場所に壁が出来てしまっていた。
「馬車まで送る。俺が先に行く」
彼らもセストの行く手を塞ぐ勇気はないらしい。
だが、金色の瞳のセストと弟とジーナに守られて歩くエミリアを見れば、だいたいの状況はわかるというものだ。
とうとうバージェフ侯爵家の嫡男に呪いが降りかかった。
相手はよく知らない地味な子だ。
明日には噂は学園だけでなく王宮にも広まっているだろう。
「出来れば、このまま王宮に行ってもらいたい。うちの父ときみのお父上で話をしているはずだ」
「申し訳ありません。うちに帰してください。うちの父がいるのでしたら、私がいなくても話は進むと思います」
こんなにいい縁談はない。父親は大喜びで話を進めるだろうとエミリアは思っていた。
「すまない。もっと時間をかけるべきなんだろうが、他の男に取られたくないんだ」
ラウルとジーナがいる前でも、平気でこういうことを言うということは、口説き文句になっている自覚はないのかもしれない。だがエミリアは、男性に口説かれた経験が全くない。どう反応していいかわからず、逃げるように急いで馬車に乗り込んだ。
「……ああ、そういう事だったのか」
ふたりで馬車に乗ってからようやく詳しい事情を聞けたラウルは、大きなため息をついて背凭れに凭れ掛かった。
「確かにいい縁談ではあるんだろうけど、まさか姉上がねえ」
「どうしよう。断れないわよね」
「バージェフ家では情報を集めるためと、騎士団とは別に王家を隠密に守るための人員が育てられているって噂があるよ。さっきの女の子もそのひとりじゃない?」
断ったら消される。
エミリアは痛み始めた体を押さえながら、座席に倒れ込んだ。
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