千賀の過去

 千賀が裕太たちと同じく卒後3年目の頃、その名は全国的に知れ渡るほど有名だった。臨床と呼ばれるいわゆる一般的な診療能力に加え、研究の分野でも業績を残し、その方面で知らない者はいなかった。

 千賀がここ、副都心総合病院に来たのは、半年間一般診療を学ぶためであった。小児科専門医という資格をとるためにいくつか経験しなければならない疾患がある。それは特殊な病院に勤めていただけでは経験できないため、一般病院に一時的に研修という名目で働いていたのだった。

 千賀としてはこんな病院にとどまっているつもりはなく、研修が終えればさっさといなくなる予定だった。

 あの頃の千賀に怖いものはなかった。目の前の全てが計算通りに運び、分からないことはなかった。先輩が失敗した手技(血管に管をいれたり、器具を刺したりする処置)も千賀がやれば成功した。一言で言えば無敵だった。


 千賀が救急当番のある日、3歳の小児が救急搬送されてきた。熱と痙攣とのことだった。聞いてみると下痢もしていた。千賀にはすぐわかった。これは「胃腸炎関連の痙攣」だと。胃腸炎関連の痙攣とは、主にウイルス性の胃腸炎による嘔吐や下痢症状がある子が、小さい痙攣を数時間おきに繰り返すものをいう。予後は非常に良好だが、何度も繰り返すため、知らないと保護者や医療従事者も驚くことがある。

 治療として千賀はまず痙攣止めの座薬を入れた。これは胃腸炎関連の痙攣には効果はないが、もし熱性痙攣であったら効果がある。また、少し眠ってもらう目的もあった。その後、鼻から胃管とよばれるチューブを入れる。これから粉薬を飲んでもらわなければならないのだが、起きていては不機嫌で飲んでくれない。そのため眠気の作用もある痙攣止めの座薬で眠ってもらい、その間に鼻からチューブを入れる。そこでむりやり粉薬を入れてしまう。これで事足りるはずだった。

 しかし何か様子が変だった。

 救急車で運ばれてきてから、全く一度も目を覚まさない。痛み刺激と呼ばれる胸のあたりをつねる処置にも反応しない。千賀は他の病気が隠れている可能性を模索し始めた。


髄液検査ルンバールの用意して、あと血液培養けつばいも」


 除外しなければならないのは髄膜炎だった。髄膜炎だった場合、治療が遅れると脳に重大な後遺症を残す。他にも気をつけなければならない疾患がないかを調べるための検査を始めた。その時だった。


「おい、何やってんだ。はやくこっちの準備を……」


 看護師がモニターをみて、何やらごそごそやっている。


「はい、でもモニターの調子が悪くて……」


 何をこんな時に……と苛立った声をあげようとしたとき、千賀の目にモニター画面が飛び込んできた。フラット、いわゆる心臓の波形がでていなかった。あわてて聴診し、首にある頸動脈を触れた。


「まずい、心停止だ。CPRシーピーアール(心配蘇生)開始して」


 すぐさま心臓を押し始めた千賀は、スタッフを集めた。挿管といわれる呼吸器の管をいれたり、薬剤の投与を始めたりしたが、その後その子の心臓が再び動き出すことはなかった。

 千賀の判断、処置は決して遅くはなかった。だがそれ以上に病状の進行が早かった。まるで全速力で追いかける千賀をあざわらうように、目の前の小児の命は手の届かない世界に逃げていく。それを休むことなく追いかける千賀。

 しかし反応は全くなかった。心臓が動き出す気配は全くなかった。


 あまりの突然の変化に千賀はお母さんへの説明を忘れていた。CPRと言われる心臓マッサージを別のスタッフに代わってもらうと、千賀は外で待つ母の元へ行った。この子は助かりませんでした、ということを言うために。


 外で待つ母はそんなことはつゆ知らず、楽観的だった。


「先生、どうですか? 入院が必要そうですか?」


 千賀は言葉に詰まった。母はまだ入院が不要で帰れるかもしれないと思っていたのだ。今まさに本人はほぼ死亡しているというのに。事情を説明された母は、あまりに現実味を帯びていない説明に、戸惑いを隠せなかった。


「もう……助からないって。どういうことですか? 今日の昼まで食事を食べていた子ですよ?」


 母が慌てて救急外来の処置室に入っていった。そこで、ぐったりと横になり、心臓マッサージを続けられている我が子をみた。


「かりんちゃん、かりんちゃん! 目を覚まして! ねえ……」


 泣き崩れる母親を前に、スタッフたちはただ心臓マッサージを続けるしかなかった。

 その後、家族が来るまで心臓マッサージは続けられ、頃合いをみて、中止された。死亡診断をするために。


 全てが終わった後、千賀は考えた。あれはなんだったのだろうかと。ある医師は心筋炎だったと、ある医師は敗血症だったと、ある医師は代謝異常だったという言うがどれも決定打に欠けていた。  

 原因解明のために亡くなった子の血液を専門の施設に送り、いくつか稀な疾患の検査にもだしたが、有力な情報は得られなかった。

 

 千賀は後日、母に結果を説明した。

 色々検査をしましたが、原因はわかりませんでしたと。母の顔は明らかにやつれていた。初孫を失った祖父は酒に溺れていると聞いた。


「……そうなんですね、わかりました」


 力なく立ち上がった後ろ姿を千賀は今でも覚えている。それが千賀が見た母の最後の姿だった。

 祖父は飲酒運転で事故に遭い交通事故死、母もその後自死し、父は連絡が取れない。あの一件を皮切りに、一つの家族が消滅したのだった。


 千賀は今でも覚えている。あの時の手の温もりを。まだ生きていた時の体温を。全力で追いかけても全く手の届かない、走り去っていく生命の灯火を。

 なんでもできると思っていた千賀は、医療という世界の神に嘲笑われたような気がした。己の未熟さを思い知らされた。所詮人間の力ではいのちという領域を支配することはできないのか。

 千賀はその後、同様の経過をたどる症候群にHSESエイチエスイーエス(出血性ショック脳症症候群)というものがあることを知った。まさにあの時の経過とそっくりだった。今まで元気だった子どもで、あるとすれば熱と下痢くらいだったはずが、突然意識障害を引き起こし、急激に全身状態が悪化し、死に至る。

 

 過去は変えられない。だが、千賀はなんとしてもここで、次に来るHSESの子を救いたい、その思いを持ち続けていたのだった。

 今ここで裕太に見せられた血液検査のデータ、経過はHSESに合致するものだった。


 思いにふける千賀を横に、裕太はその横顔をじっと見つめた。千賀の声をまった。


「もし妹さんを救いたいと思うなら……」


 千賀はキリっと裕太の目を睨んだ。


「一人でいい、一人でいいからHSESの子を救え。全てはそれからだ。お前の戦いはまだ終わっちゃいねえ」


 そう言って千賀は去っていった。


(了)

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