歯を食いしばる

 外来に着くと、向こうから一人の子どもが駆け寄ってきた。足元に顔を埋めてから裕太の顔を見上げた。


「ひなちゃん」


 裕太がしゃがんで、視線をひなたに合わせると、向こうからひなたの母の美沙子がゆっくりと笑顔で歩いてきた。


「城光寺先生! お久しぶりです。ちょっと風邪気味だったんで受診に来たんです、でもじょー先生見つけたら元気になっちゃった」


 ひなたは満面の笑みで裕太を見つめた。しばらくしてから顔をしかめた。


「あれ? じょーしぇんしぇー。えんえんしてたの?」


 裕太は違和感を覚えた。目を丸くした顔で美沙子を見上げると、美沙子は笑みを返した。


「驚きました。ひなちゃん、見ない間にこんなにしゃべれるようになったんですか」

「そうなんです、どんどん喋るようになって。もうすっかり前の時くらいまで回復しました。うるさいくらいです」


 ひなたは心配そうな顔を浮かべていた。それから裕太の頭を撫で始めた。


「ひながね、よしよし、してあげるからね」


 裕太は、ひなたの真剣な眼差しを見ていた。徐々に胸の奥から熱いものが込み上げてきた。やがて堰を切ったようにわんわん、泣き出した。真剣に頭を撫で続けるひなたの横で、美沙子は驚きの表情を浮かべた。


「あれ、どうかしましたか?」


 裕太は今、ひなたの手の感触、声、見えている全てがきらきらと輝いて見えた。あの時、もし一瞬でも何かが間違っていればこれらの全ては無かったのだ。

 自分はここまで、みんなの支えがあってたどり着いた。小さい頃は両親に、支えてくれた仲間、指導してくれた先生たち、その人たちのおかげで自分は奇跡を起こし、この瞬間に出会えたのだ。

 みんな納得いかないことがあっても歯を食いしばって生きてきた。それなのに、自分は——。たった一瞬の感情だけで、全てを投げ出そうとしていたのか、大切な人たちから預かっていたこの未来というものを。


「じょーしぇんしぇい、だいじょぶ?」


 裕太は腕で顔を拭うと、微笑みを返した。


「うん、大丈夫だよ。じょー先生、嬉しかったんだ、ひなちゃんがこんなに元気になって」


 潤んだ視界でひなたを見ると、そこには屈託のない笑顔があった。その表情は天使そのものだった。

 気づけばあたりは外来患者の診察が始まり、今日も忙しい1日が動き出そうとしていた。

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