刺し違える刃

 全体カンファレンスは、今月の接遇についての啓発がなされていた。


「『お待たせしました』、この一言が患者様の満足度をあげることになります」


 接遇委員会の委員長を務める、看護師長の政所まどころがマイクを使って喋っていた。横には小菅院長はじめ、幹部らが並んでいた。それらを見上げる全職員。副都心総合病院の大ホールには500人ほど収容できる広さがあった。

 接遇に関する話が終わった後、周りから拍手が沸いた。伊井、水野もとりあえず拍手をした。裕太はうつむいたままだった。


「それでは最後に院長から一言」


 司会の合図で、小菅院長がゆっくりと歩きだした。スタンドマイクの前に立つとあたりを見回した。


「先月は当院も色々ありました。悲しいことに一人、職員が亡くなりました。彼の当院に残してくれた功績は偉大なものであります。感謝の意とともに、故人の冥福を祈り、黙祷を捧げます。それでは、黙祷」


 沈黙が流れた。

 数百人のスタッフがいるのがまるで嘘のように静まり返った。この瞬間だけ、宇宙空間に瞬間移動したような、そんな雰囲気にさえ包まれた。


「黙祷終わり」


 院長の声で皆、顔を上げた。その後、特に印象に残らない話をしたあと、それでは、と締めようとしたとき。


「あの」


 伊井と水野は隣から大声が上がり、びくっとなった。

 

「訴訟はどうなったんですか」


 裕太だった。

 目は死んだ魚のように濁っていたが、その先には一度着火すれば凄まじい爆風を起こしかねない危険性も孕んでいた。


「何を言っているのね、君」

「桐生先生を、訴訟も考えているっておっしゃっていましたよね。先月」


 あたりがざわつき始めた。

 伊井と水野は顔を見合わせ、おいやめとけよ、と裕太の肩に手を置こうとしたが、その手を裕太は振り払った。


「君の言っている意味がよくわからないね。亡くなった方を侮辱する気か」

「侮辱しているのはそっちですよね。生きてたら訴訟して、死んだらもう訴訟しないんですか。なんでですか」


 ざわつきはいよいよボリュームを上げ、あたりの雰囲気は、今まさに沸騰しようとぐつぐつ言い出した鍋のお湯のようになった。

 院長の隣にいた統括診療部長の権藤がマイクに向かって喋った。怒りに満ちた表情で裕太を睨んだ。


「君、後で院長室に来なさい」 

「いいですよ、ここで。桐生先生は、何度も辞めたいって言ってたらしいじゃないですか。それを院長が無理やり留めさせていた、それなのに免許が無いとわかった瞬間、訴訟ですか。そっちの方が侮辱なんじゃ……」


 裕太の視界がぐらり、と歪んだ。


「……痛ってえな」


 裕太が殴られたのだと気づくまでに少し時間がかかった。衝撃の出どころに目を向けようとした瞬間、一瞬その人物の顔が見えた時にはもう一発顎に衝撃が走った。そのまま裕太は床に倒れ込んだ。裕太の周りから悲鳴とともに人が離れた。

 頭をうちつけた裕太は天井が見えた。大きな照明がいくつか目に入った。視界の隅から見えてきたのは、自分を殴った人物だった。


「なん、で……」


 千賀が怒りの表情で顔を近づけた。裕太の胸ぐらをつかむと、その体を持ち上げた。


「おめえ、うるせーんだよ! このガキが!」


 そう言い放つと、裕太の首を掴んだまま引きずり出そうとした。裕太は必死で抵抗したが、無理やり連れ出される形で、大ホールを後にした。

 最初は抵抗していた裕太だったが、廊下を越え、エレベーターに乗り、移動しているうちに抵抗することを諦めた。口の中から鉄錆の味がした。顎の痛みがじんわりと疼く。


「千賀先生、どこ……行くんすか」


 裕太は首根っこをつかまれたまま、されるがままに連れて行かれていた。

 着いた場所は屋上のテラスだった。芝生が敷かれ、都心の景色が一望できる。あいにく今日は雨が落ちてきそうな曇り空だった。

 千賀はボコボコになった裕太を壁に投げ捨てると、手すりにもたれかかり、都心のビル達に視線を向けた。


「千賀先生、俺なんか間違ったこと言いましたか」


 千賀はしばらくうつむくと、口からつばを吐いた。

 それから手すりに背中を預けると、裕太の方を向いた。


「ああ、お前の言っていることは全部間違ってる」

「どこがですか。生きている時は訴訟っていって、死んだら黙祷って。なんすかそれ」


 千賀の目は鋭かった。あと一歩踏み出せば再び裕太を殴り出すんじゃないか、そう思わせるほど凄みがあった。


「教えてやろうか。それはな、ここじゃあっちが院長で、お前が肩書きもねえ、単なる一医者だからだよ。そこではな、院長が言ってることが全部正しくて、お前の言ってることは全部間違ってんだよ」


 裕太は壁にもたれかかり、座位を保つのがやっとだった。だらりと手を下ろし、口の中に広がる血の味を噛み締めていた。


「なんすか、それ。千賀先生も変なこと言うんすね」

「お前——なんで俺が学会や会議で発言してるとき、他のやつらが黙って聞いているかわかるか? それは喋っているのが俺だからだ」


 裕太はだらりとしながら、鼻から空気を吸い込んだ。じっとりと湿った匂いがした。


「今までの学会でも意味のある発言を積み重ねて、実績も残して来た俺だから他の奴らは素直に聞くんだ。院長だって俺が実績を上げているからちょっとくらい言うことを聞く。あの院長だって、あそこまで上り詰めるために凄まじい努力をして、根回しをして、磐石な体制を作り上げてきたから今があるんだ。だから権力を持つ、権力を持っているから、発言にも意味があるんだ。それに比べてお前はどうだ、大して考えもしてないことをただ感情に任せて吐き出してるだけじゃねえか。そんなやつの言うことなんて誰も聞きゃしねーよ」


 言い切った後、ふうと肩に入った力を抜いた。の取れた瞳で裕太を見た。裕太はぼんやりと遠くを見つめたままだった。


「言ってることが正しいかどうかなんて、関係ねーんだ。大事なのは言ったやつに力があるかどうかなんだよ。お前に何か言いたいことがあるんだったら、まず偉くなれ、力をつけろ。全てはそれからだ。その前に犬死になんてするんじゃねえ」


 裕太は耐えきれず、口の中の血の混じった唾をはきだした。口元以外はもう動かす気になれなかった。


「いいっすよ、犬死にで。俺この病院辞めますから。あんな院長の下で働きたくもないですからね。医者をやるために、人間捨てるくらいなら、医者だってやめますよ。お疲れ様でした、ありがとうございました」


 そう言うと裕太はすっくと立ち上がり、深く頭をさげた。そのまま院内への入り口に向かって歩き出した。

 いつもの千賀だったら、勝手にしろ、と言い放っていたかもしれない。だがその時は違った。手を顔に当て、何かを逡巡していた。そして次第に離れていく裕太の背中に、考え抜いた言葉を吐いた。


「桐生が」


 裕太の足が止まった。


「——もしあいつがここにいたら、何て言っただろうな」


 突如裕太の足先、指先から熱いものが走り始めた。透明な液体がひからびた体の隙間を一瞬にして埋めていくように。やがて顔を震わせると、喉の奥から嗚咽が漏れた。


「桐生……先生」


 裕太にははっきり聞こえた。最後に交わしたあの言葉が。


——私の分まで頑張って欲しい。


 裕太はその場にうずくまった。そしてわんわん、泣いた、まるで子どもが泣きじゃくるように。じっとりとした水分を含んだ風が、通り過ぎた。風が千賀の前髪、裕太の背中を撫でると、そのままどこかへ去っていった。

 うずくまる裕太の胸から、ピリリリリ、というPHSの音が鳴った。しばらく鳴ってから発信元を見てみると、外来の篠原からだった。

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