最後の言葉
数日後、ようやく仕事も慣れてきた裕太は、家で夕食を食べられる日も増えてきた。行きつけのスーパー「ナイスプライス」で、安売りの肉と、鍋で茹でるタイプのラーメン。それに卵とミックスサラダを薬代わりに摂取するといういつも同じメニューだった。
「お、牛乳安いじゃん」
思っていたより安くさまざまなものが手に入った裕太は、会計を終え、袋詰めをしていた。ふと窓に吹き付ける大粒の雨音が裕太を呼んだ。顔をあげると、窓ガラスの外は視界がぼやけるくらいの大雨だった。
(まじか、これびしょ濡れだな)
心の中でつぶやいてから視線を落とそうとした裕太は、何かに気づいて再び視線を上げた。窓ガラスの奥に知っている人がいた。
(まさか……)
裕太は急いでエコバッグに買ったものを詰め込んだ。バターが一つこぼれおちたが、それも気にせず自動ドアへ向かった。ドアのゆっくりした動きに苛立ちながら、隙間を惜しむように裕太は店の外へ駆け出した。
(確かこっちの方へ……)
裕太は信号を渡り、駅の方へ向かうと先ほど見たシルエットを見つけた。
「桐生……さん」
なんと呼べばいいのかわからなかった裕太は、語尾がどもってしまった。相変わらず大粒の雨は傘をうるさく叩き続ける。呼びかけたシルエットが止まり、ゆっくりと振り返った。裕太との間には厚い雨のカーテンが落ちていた。
裕太はその顔を見た。
病院で見かけなくなってからはや2週間。頬は痩せこけ、髭は生やし放題だったが、そこにいたのは紛れもなく桐生本人だった。
「おお、城光寺先生。元気にしてたかな」
相変わらずぼそ、っとした喋り方に加え、雨粒の雑音がひどく、裕太にはセリフのほとんどが推測で認識していた。
裕太は立っていた。
何を言っていいのかわからなかった。何をしたらいいのかわからなかった。言いたい事、聞きたい事、たくさんあったのに、それらが全て一瞬にして吹き飛んでしまった。生気が失われ、やつれた顔を傘の下に浮かべた桐生。あの自分を包んでいた大きな存在が、今失われようとしている。
桐生がゆっくりと距離を縮めてきた。一歩一歩、それはまるで時計の針が時を刻むように。手の届く距離まで近づくと、裕太の目を覗き込んだ。
「君にも大変迷惑をかけたね、申し訳なかった。私の言ってきたことは全て忘れて欲しい」
裕太の頬が熱くなり、息が荒くなった。視界がぼやけてきた、それが雨のせいなのか、他に理由があるのか、区別がつかなくなってきた。
後のことはよろしくたのむよ、そう言って背中を向けた桐生に、裕太は大声を張り上げた。
「まだ……教えてもらいたいことがたくさんあったのに。もっと聞きたいことがあったのに……。なんで——」
裕太の頬がひきつり、気づけば嗚咽が漏れていた。握っていたエコバックが落ち、雨粒が打ちつけるアスファルトに中身が散らばった。胸の奥にある全ての内臓を吐き出すつもりで、裕太は桐生の背中に言葉を投げかけた。
「免許がなんだっていうんですか。そんなものどうだっていいじゃないですか。免許を持っている他のどの先生より、先生の言葉や教えてくれたことは大切な宝物です。嘘なんて一つもありませんでした。先生がいてくれたから今自分はこうやって医者続けられているんです。これだって紛れもない真実ですよ。先生言ってくれましたよね、自分みたいな医者に子どもを診てもらいたいって。俺もそうです、自分が爺さんになっても、子どもができても、先生みたいな人に診てもらいたい、本当にそう思います」
言い終えた後、何回か鼻をすすっては、ぼやけた視界を腕で拭きあげた。桐生が再び裕太の方に向きを変え、まるで子どもをなだめる大人のような目で見つめた。
「ありがとう。でもね、君には医師免許があって、私にはない。どんな理由があるにせよ、これは大事なことなんだ。いつか言ったよね、医師免許を持っている人はどんな困難も乗り越えられるって。私にはないけれど、君にはある。君には私にできないことができるんだ、だから——」
桐生は一瞬言葉を詰まらせた。
「——私の分まで頑張って欲しい。たくさんの子どもの笑顔を守って欲しい。いいね」
言い放つと、即座に裕太に背を向け、そのまま桐生は去っていった。有無を言わせぬ言葉尻だった。瞬く間にその姿は薄くなり、大粒の雨の中、完全に視界からが見えなくなるまでそう時間はかからなかった。
裕太はその場にうずくまり、拳を地面に叩きつけた。何度も何度も。
「なんで、なんでこんなことに——」
力任せに叩いた地面は微動だにしなかったが、裕太は殴り続けた。ふと拳を見つめてみると、皮が剥け、血が滲んでいた。
医師免許があれば何でも良いのか、無い人はどれだけ一生懸命頑張っても認めてもらえないのか。真実ってなんなんだ、大切なものはどこへいったんだ。裕太はいますぐこの地球というものをぶっこわしてやりたい衝動に駆られていた。
裕太の頭に大粒の雨が一粒、ぼたり、と打ちつけた。
見上げると雨は上がっていて、雨粒は電線から落ちたものだと気づいた。電線の奥に、雲の合間から夕焼けの空がこちらを覗いていた。やがて裕太は呼吸をすることを思い出すと、ゆっくり立ち上がった。ようやく呼吸が整ったことを確認すると、散らかったラーメンや牛乳を再び袋に片付け、また一つ大きなため息をつくのだった。
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