その人物の過去
幼少期の桐生は周りの大人から見て、いわゆる一目置かれる存在だった。
学校の教師からは、桐生の回答用紙は解答用紙にしか見えない、と言われるくらい、模範解答を提出し続けるような生徒だった。実際少し間違えていても、気づかれず満点となったこともよくあった。
いずれ日本を引っ張る大物に成長するだろうと、周りからそう期待されていた彼は、高校卒業後専門学校に入ることになる。大学に行かなかったのは家庭の事情だった。
酒に溺れてことある度に暴力をふるっていた父、一方で収入を得るために身を粉にして働いていた母。あるときその母が腎臓が悪いことが発覚し、当時高校生だった桐生は少しでも早く仕事に就く必要があった。専門学校を難なく卒業すると、食いっぱぐれがないだろう医療系の仕事として医療事務の職に就いた。
いくつかの病院を点々とした後、辿り着いたのが竹元医院だった。小児科と内科を標榜している古臭いその医院の評判は決していいものではなかった。しかし近くにある、いわゆる人気病院にはさまれ、ニッチ的な役割を果たしていた。
竹元医院が不評な理由は院長の人格、まさにそれに尽きる。丸顔に無精髭、50過ぎの彼の診療スタイルは、患者に目も合わせなければ、いつも同じような適当な薬を処方するだけの診療。ただただ楽に、何となくお金が稼げればいい、そんな院長が一人仕切っていた医院ではあったが、しっかり診て欲しいというより、ただ早く何となく薬がもらえればいいと思う患者は、竹元医院のリピーターとなっていった。
桐生は医療事務として完璧な仕事をこなした。やがて事務の範疇を越え、経理や人材の確保、その他あらゆる医院の中枢を彼がこなすようになっていった。
ある日のことだった。夜間に患者がやってきて、診察を依頼してきた。桐生は診療時間外ということを告げたが、その患者は食い下がり一向に帰る気配がない。そのことを院長の竹元に桐生は告げた。
「診てやりゃいいよ、金になるし」
「わかりました、ではそう答えて……」
「君が、だよ」
桐生は耳を疑った。
「私が、ですか?」
「そーだ、頼むよ」
そう言って竹元は部屋に戻り、アルコールの続きを始めた。
悩んだあげく、桐生は白衣を羽織り、見様見真似で診察をした。桐生の話は丁寧だった、そして仕事の合間に読んでいた医学書から簡単な知識は入っていた。もちろん処方の仕方も、その他全てのことは桐生一人でできていた。
患者は大層喜んで、竹元医院を後にした。
これが医師、桐生智の誕生の瞬間だった。
その後も夜間にやってきた患者の対応を、桐生がした。やがて竹元の酒に溺れる頻度が増えるようになると、夜間だけでなく日中の患者も桐生が対応するようになった。気づけば診療のほとんどを桐生がこなすようになっていった。
竹元の診察時間が減れば減るほど、患者の満足度は上がり、皮肉なことに医院の評判は上がっていった。時が経つにつれて、竹元医院の医師に竹元という医師がいたことが忘れ去られ始め、竹元医院の医師は桐生、ということが浸透し始めた。
そんなある日、変化が訪れる。
竹元がまとまったお金を持って、姿を消したのだ。当分は遊んで暮らせるお金ではあったが、アルコールにつぎ込む毎日では一ヶ月持つか持たないかだろう、桐生はそんな見込みを持っていた。きっとまたすぐに帰ってくる、そう思いながら今まで通り診療を続けた。
しかし結局竹元は帰ってこなかった。事務や看護師も徐々にメンバーを変え、やがて竹元のことを知るものは桐生のみとなっていった。
「そういえば、院長はどうしたんですか?」
以前を知っている患者からはこう問われることもあった。その度、体の調子が悪くて入院しています、と返事をすればそれ以上深く問い詰めるものはいなかった。
桐生としても良心の呵責がなかったわけではない。しかし、今更突然辞めます、というわけにもいかず、結局惰性で医者のふりをした診療を続けるしかなかった。いつか竹元が帰ってきたら、そのまま姿を消すつもりだった。しかしその日はいつまでたっても訪れず、やむ無く桐生は竹元医院を閉める決断をする。
そんな時だった、桐生の元に一人の男が訪れたのは。
副都心総合病院の院長、小菅である。
君の噂はよく聞いている、開業医としての視点を持った小児科医に是非
そんな大きい病院に自分のような医師免許を持たない医師が働いていいのだろうか、もちろん桐生は断ったが、何度も懇願され最後は根負けした。最初はほんのちょっと腰掛けのつもりだったが、結局延長につぐ延長で今に至る。桐生としてはこうなるまえに身を引きたかったのだが、そうこうしているうちに恐れていた事態が起きる。竹元医院で桐生が事務として働いていたことを知っている者が現れたのだ。それを不審に思った病院幹部たちが勅使河原氏を雇い、桐生の無免許が発覚した。
勅使河原は伊井の父親が勤める大病院同様、和気の実家にも顔を出していた。和気の父親も院長をしており、和気と勅使河原は顔見知りだった。以前和気はとある重要な依頼を勅使河原にしていたことがあり、頭が上がらないのだという。当然ながら和気は経歴詐称などしていない。
ここまでが事の顛末である。
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