諦めかけるまで諦めるな
その後も裕太は毎日、根気強くひなたの病室に足を運んでいた。
「ひなたちゃーん、おはよう!」
声かけにかすかに目を開けることもあれば、全く反応が無い日もあった。裕太が、肩をぽんぽんと叩いて、今日はいい天気だよー、などと声をかけていたが、もちろんひなたがそれに応答することはなく、言葉を理解しているというより、刺激にわずかに反応している程度だった。
その日はちょうどリハビリを行う理学療法士の野田が来ていた。
「野田先生、どうですか」
野田はひなたの足を曲げたり伸ばしたりしていた。
「そうですね、最初はICUにずっといたせいか関節も硬かったのですが、少しずつ柔らかくなっています。子どもって治りが早いですね」
そうですか、と裕太は返事をした。大人はそうはいかないのだろうか、などと考えていた。
「自分で力を入れる様子はありますか?」
一番気になるところだった。関節が硬い、柔らかいは外からの力で何とかなることもある。しかし一番大事なのは自分で動かそうとするかどうか。これがないということは脳の一部分が死んだままでいるということになる。野田はしばらく難しい表情を見せた。
「そうですね、時々ぴく、っと力を入れようとする感じはあります。ただそうあって欲しいという思いからくる勘違いかもしれません」
はっきりとした回復の兆しは見えていないということだった。そうですか、と裕太が言うと、ぽっちゃりで小柄な野田は額の汗をハンカチで拭きながら申し訳なさそうに病室を去った。
裕太が後ろを振り返ると、いつも美沙子が座っているところに本人はいなかった。机の上にはパソコンといくつかの資料、今さっきまで仕事をしていた様子が伺えた。
(病院に来てまで仕事か、そういえばシングルマザーって聞いたな、そこまでしなきゃいけない仕事って……。ある意味俺たちよりヘビーだな)
ガチャン、と扉が開き、美沙子が帰ってきた気配を感じると、
「あ、お母さん、失礼します」
と言って裕太は逃げるように病室を出ようとした。
「あの、ちょっと」
美沙子の鋭い声が裕太の首根っこを掴んだ。
「はい」
ゆっくりと裕太は振り返った。
美沙子は腰に手を当て、裕太をキッと睨みつけた。黒縁メガネが少し光ったような気がした。
「この子は……ひなたは元に戻るの?」
一番聞かれたくない質問だった。戻ると信じている、だからこそリハビリをして、声かけを続けている。しかし、ここ数日その兆しすら見えない。ひょっとしたらこのまま何も喋れないまま寝たきりの人生になるかもしれない。だがそれが自分のせいかもしれないと思うと、とてもそんな予測は裕太の口からは言えなかった。
「子どもは『
裕太は喋るのをやめた。
美沙子の表情が突然崩れ始めたからだ。俯き、眉をひそめ、突然、うっ、うっ、と嗚咽をもらしはじめた。そのまま床に崩れ落ちた。
「大丈夫ですか?」
裕太が駆け寄って手を差し出すと、美沙子はそれをパチン、と払った。そのまま大きな鳴き声をあげ始めた。
どうしていいか分からず、裕太はただその姿を眺めているしかできなかった。
「どうして……どうして、こんなことに——」
泣きながら漏れた言葉に、裕太の胸に大きな重しがのしかかった。でももう逃げない、裕太は意を決して言葉を発した。
「対応が遅れて申し訳ありませんでした。私があの時しっかり見てあげていればこんなことにはならなかったと思います。でもまだ望みは捨てていません、きっとひなたちゃんは……」
裕太がそこまで言いかけた時、美沙子はうつむきながら、裕太を制した。
「違う——もう……、もういいから」
美沙子は嗚咽混じりにそう呟くと、呼吸を整えるように数回鼻をすすった。静かな病室には暗がりが染み渡り、明かり無しには辺りが見えにくくなるほど陽が落ち始めていた。沈黙の中に響く、鼻を啜る音。それがしばらく続いてから、美沙子は徐々に落ち着きを取り戻していった。
「今日はもう……帰ってください、お願いします」
その涙声を聞いて、裕太は美沙子から距離を取った。そして立ち上がり一礼してから病室を去った。
ガチャン、という扉が閉まる音が響く。
ひなたと二人っきりになった病室で美沙子は立ち上がると、よろよろとひなたのところへ向かった。そしてすやすやと寝息を立てる小さな体の左手を握った。そのまま体を強く抱きしめると、顔をうずめむせび泣いた。
「ごめんね、ひな……私のせいで——」
その声がひなたの脳に届いているのかどうか、それは誰にも分からなかった。
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