後半戦:Regeneration
積み上がった難題の束
ひなたが
徐々に
「今日抜管だっけ」
抜管とは人工呼吸器に繋ぐために入れていた口からの管を抜くことだった。
「そう」
返事をした裕太は神妙な面持ちだった。
なぜならこの抜管はひなたにとっても、裕太にとっても大きな意味を持つものだったからである。
抜管後、裕太はあの日以来初めてひなたと出会うことになる。つまり病院に着いてからまだひなたが目を開けたり、言葉を発するところを裕太含め誰も見ていないのだ。ひなたは心臓が止まっている時間がそれなりにあったため、脳へのダメージは少なくない。ただそれがどれだけあったのか、それは誰にもわからなかった。ひょっとしたらいつも通りに喋り出すかもしれないし、最悪一生言葉どころか、コミュニケーションも取れない状態のままかもしれない。それがいよいよはっきりするのだ。
「はい、そうそう咳してね、上手だよ」
抜管は麻酔科医でもある集中治療室のスタッフが行った。今まで完全に機械に頼っていた呼吸を自分自身の力で行う。これは全てを母に守られていた胎児が出産という形で世の中に産声をあげ、自分の力で生き始める瞬間に似ている。どちらも非常に危ない瞬間であり、同時に一つの生命として生きようとする力とはなんたるかを彷彿させる。
ひなたがかすれた咳をしてから、苦しそうにもがいた。しばらくしてから、大声で泣き出した。それをなだめるスタッフ達。
「大丈夫だよ、ひなたちゃん」
届いているのかいないのか分からないこの状況でも声をかけ続ける。ひなたは相変わらずかすれた大声で泣きながら、寝返りに近いごろごろをしていた。ベッドから落ちないよう、点滴の管が外れないよう、スタッフがそれを支えた。
あの日以来初めて聞く、ひなたの声であった。その声とわずかに開いた目を見て、生命のたくましさを裕太は感じていた。あの時、あとわずかでも対処が遅れていたら、この瞬間には出会えなかった。病院に運ばれてきた直後のか弱いこよりのような命からは想像できないような力強さが裕太の胸を叩いていた。どうやら抜管は無事成功したようであり、その後も呼吸状態の悪化はなかった。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
小児科病棟は5階にあった。その512号室という個室がひなたにはあてがわれた。その部屋に横たわるひなたに裕太は声をかけた。
「ひなたちゃん、分かる?」
ひなたはぱっちりと目を開けた。看護師が両側の髪をツインテールに結んでくれていた。裕太はひなたの前で手を左右に振った。それを見つめることが出来るかを確認するためである。
「ひなたちゃん、ほらほら」
ひなたの目は真っ直ぐ前に固定されたまま全く動かなかった。試しにかなり近いところで手を揺らしても、反応は同じだった。
(見えていない、もしくは反応していない)
「ごめんね、ちょっと痛いよ」
裕太はひなたの胸の中心にある胸骨とよばれる平な骨をぐりぐりした。これはかなりの痛みを伴う行為で、痛み刺激と言われる。通常であれば飛び上がっていたがるほどの痛みであり、小児であれば逃げようとしたり、大声で泣き出す。しかしひなたは少し顔をしかめるだけで、逃げる様子もなければ、声すら出さなかった。
(反応が相当悪いな、鎮静剤の効果はもう切れているはずなのに)
裕太が数ヶ月前に診察した時でさえ、飛び上がったり、おしゃべりしていたのを知っていたので、ひなたの脳がかなりのダメージを負っていることは明白だった。
「お母さん、今は少し心臓や頭が疲れていると思いますので、しっかり休ませてあげましょう。心臓をサポートするお薬は徐々に減らしていきますからね」
母の美沙子は椅子に座って足を組んでいた。ブラックのセットアップパンツスーツを身にまとい、黒いフレームのメガネの奥にはキリリとした目尻を覗かせていた。その様子は今まさに仕事中をテキパキとこなしてきたようなオーラを裕太は感じていた。
しばらく黙って裕太の方を見てから、美沙子は視線を床へと落とした。裕太もどうしていいか分からず、うつむくと、
「では失礼します」
と一礼して病室を出た。
(俺のせいでこんな風になったようなもんだ。恨んでるよな、きっと)
裕太は廊下で立ち止まった。そして一つ息を吐いた。
そして両手で拳を作ると、口を結び、目をキリっとさせた。
(でもやるぞ、できるところまで!)
そう勇んで病棟を後にした。
ちょうどその頃、病室では美沙子が電話をかけていた。
「はあ? だからそれは私が担当してたんだから、なんで坂田なんかにチーフさせるのよ。代行? そんなのいらないわ、私一人でできるから——。リモートで十分でしょ、いい? 絶対に代行なんて置かないで。……ねえ、ちょっと聞いてる? ねえ、っておいっ!」
美沙子のかけていたスマホは既に切れていた。それを見た美沙子が持っていたスマホを思いっきり床に叩きつけた。
「ああ、もうっ!」
鬼の形相で叫ぶ美沙子。気づけば肩で息をしながら、全身に力が入っていた。一つ息を吐くたびに、その火照った肺からまるで火が噴き出すように美沙子の全身は熱を帯びていた。心臓は激しく鼓動を打ち、今にも飛び出さんばかりだった。
数回息を吐くことによって、やっと息の温度が室温に近づいてきた頃、我に帰った美沙子は自分の投げたスマホを拾い、埃を払った。ふと視線を上げると、その先には静かに横たわるひなた。その姿を見て、美沙子は一つ大きなため息をつくのだった。
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