医者を辞めたいと思ったとき

 翌日、裕太は医局にいた桐生の背中に声をかけた。


「桐生先生、今よろしいですか?」


 桐生はイヤホンをしながら仕事をしていたが、そのデバイスを両耳から外した。


「どうした、城光寺先生」


 笑顔を浮かべていた桐生だったが、裕太の顔に大きな影が差していることに気づき、はっと表情を変えた。それから辺りを伺った。


「場所変えようか」


 その提案に裕太は黙って頷いた。



 桐生が案内したのは屋上テラスで、病棟の屋上に芝生が敷き詰められ、備え付けのベンチに座ると都心の風景が一望できた。その見晴らしの良いベンチに腰掛け、裕太はどんな言葉を選んだら良いのか考えていた。桐生が自動販売機で買ってきた缶コーヒーを裕太に手渡すと、裕太は軽く会釈をして受け取った。


「桐生先生、医者を辞めたいと思ったことありますか?」


 裕太はベンチに座り、首を垂れたまま言った。


「どうして?」

「自分、頭悪くて、仕事もうまく捌けないし。それでも自分が大変なだけなら我慢すれば何とかなるって思ってたんですけど、それで患者さんに迷惑をかけてしまうのは耐えられないんです。だから……辞めたいと思っています」


 桐生は遠くの景色に視線を固定していた。ビルとビルの隙間から、時折四角い塊が通り過ぎた、おそらく山手線だろう。


「自分って、医者に向いてないんだなって思います」


 桐生は裕太の横顔を真剣な眼差しで見つめてから、視線を目の前の灰色の塊達に移した。そして今まで通り、滑らかに言葉を発した。


「城光寺先生が辞めたいというなら、私はめないよ。それがいいと思う」


 時折吹き抜けるビル風にも負けないくらい、その言葉ははっきりと裕太に伝わった。裕太は視線の先にある、青々とした人工芝をじっと見ていた。


「城光寺先生にとって良い医者ってどんな人かな」

「それは……仕事ができて、判断力もあって。患者さんの病気をしっかり治してあげられる人だと思います」


 桐生は何度も頷いた。少し強めの風が桐生の前髪をなびかせた。


「じゃあ良い医者以外は医者をやっちゃいけないのかな」


 そんなことはないと思いますけど、と裕太は弱々しく答えた。


「城光寺君、私はね『向いてる向いてない』っていうのは神様が決めることだと思っている。だから自分で決めることではないし、ましてや他人が決めることでもない。大事なのはやりたいか、やりたくないか。違うかい?」

「でも、自分はもう矢部さんの主治医なんてやる自信も資格も無いですよ。あと少しで殺しかけた人なんかに」


 裕太の目には涙が浮かんでいた。桐生はベンチに座り、一瞬だけ裕太を見てから缶コーヒーに口をつけた。


「でも生きてる」


 桐生の言葉が空を切った。


「ひなたちゃんはまだ生きてるんだ。千賀先生が繋いでくれたかすかな希望のおかげで、君は挽回のチャンスをもらえたんだ。まだ試合は終わってないよ、辞めるかどうか決めるのはあの子が元気に退院してからでも遅くない。違うかい?」


 一瞬裕太の視界が涙で歪んだ。それを裕太は力一杯腕でしごいた。鼻水がじゅるっと音を立てた。


「こんな……僕が主治医やってもいいんですか」

「もちろんだよ。医師免許を持っている以上、君は医者だ。医師免許というものは一瞬の幸運で取れるものではない。狭き門である入学試験に合格し、専門性の著しい単位を取得し続け、国家試験という超難関を突破して初めて取得できる。どんな形であれ、医師免許を取れた人はあらゆる困難に立ち向かう資格を持っていると私は信じている。城光寺先生、君もだよ。

 それに君は素晴らしい医者だよ。私にもし子どもがいたら、ぜひ君に診てほしいと思っている。本当だよ?」


 裕太のひからびた岩のような心に、何か温かいものがじんわりと染み渡っていくのを感じた。ゆっくりと視線を目の前の風景へとあげてみた。ぼやけた視界を一つ拭うと、そこにはいつもと変わらない、ありふれた日常があった。大空を飛ぶ鳩がいた。その飛び方は一欠片も曇りのない、ただただ純粋で、自由だった。

 あの鳥も飛ぶことに悩むことがあるのだろうか、生きることに不安になることがあるのだろうか。


 一つ強い風が吹いた。裕太の前髪が視界を覆い、数本が目に入った。それらを拭い、再び目を開けると、目の前には再び都会の大空が見えた。あの鳥たちはもう見えなかった。みな、どこか好きなところに行ったのかもしれない。


「桐生先生」


 桐生は答えなかった。

 裕太が立ち上がると、桐生に一礼した。


「話を聞いてくださって、ありがとうございました」


 持ち上げられた表情に笑顔が浮かんでいることを確認して、桐生も少し笑った。




第4章:前半戦 Impact 了

    後半戦 Regenerationへ続く。

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