当直という戦場

 17時からが当直帯と呼ばれる時間だった。その時間に来る救急車や電話相談は全て当直医に投げられる。当直医は、その病院で働く医師により毎日振り分けられ、月1回の場合もあれば週1回入ることもある。これは病院にいる医師の数や、担当する医師の年数などによっても変わる。本日は裕太が当直医としてこの病院の夜の診療を任されることになっていた。

 16時50分の時点ですでに、ふらふらするという84歳の男性の受け入れが決まっており、裕太は空いた時間で入院患者のカルテ記載だったり、翌日の点滴や検査オーダーを入れていた。


 裕太のPHSが鳴った。通常の呼び出し音に加え、バイブレーションがついていた。


「まじかよ……」


 つい漏れたセリフを吐いてから、その電話に出た。


「はい、城光寺です」

「城光寺先生、南田救急隊から患者搬送依頼の電話です」

「はい、どうぞ」


 病院外からの電話である外線は通常と異なる呼び出し設定、つまりバイブレーションをつけるように設定されていた。その時点で、救急車が来ることがある程度予想がついていた。

 胸が急に痛くなって苦しくなった49歳の男性だった。受け入れ了承の返事をしてから、裕太は「胸痛」を引き起こす病気の確認をしていた。当直帯は小児科医も慣れていない大人を診なければならず、また内科医も未知の生物である小児を診療しなければならない。間違いなく最もストレスフルな仕事の一つと言えるだろう。

 幸い一通りの検査でその男性は異常なく、症状も到着時には改善していたため、翌日循環器内科受診を勧めて帰した。


 時刻は20時。救急外来にある休憩室のソファに、裕太はもたれかかった。


「ふう」


 今晩休めるのはこの数分だけかもしれない、そう思うとこの時間がとても貴重に思えた。机の上にはだいぶ前に頼んでいた出前が置いてあったが、もうすっかり冷めていた。あんかけ肉野菜炒め定食だった。当直に数回入ったことのある医師であれば、麺類は絶対頼まない。なぜなら、いざ食べようとしたときに救急車が来てしまうと、一通りの対応が終わってから食べようとしても麺が汁を吸って完全に伸びきってしまうからだ。なので、冷めてもまたあたためれば食べられるご飯ものを頼むのがセオリーになっている。

 チン、という音と共にあんかけ野菜炒め定食が温まると、それを裕太は急いで掻き込んだ。

 最後の一口を飲み込んで、ふと自分の肩に力が入っていたことに気づく。どうやら夕飯を食べる時間は与えられたようだ、時計は20時半を指している。良かった、あとはどれだけ休めるかだ、休めるうちに休んでおこう、そう思って裕太はソファで目を閉じた。


 突然胸のPHSがジリリリと鳴った。その音で、裕太ははっと目が覚めた。


「はい、城光寺です」

「城光寺先生、救急外来きゅうがいからです。受診相談の電話です。2歳の男の子、発熱だそうです」

「他に症状はありますか?」

「いや、特にありません」


 裕太は時計を見た。23時半だ。だいぶ寝ることができたのか、そんな思いと同時に、この時間に発熱で受診か、という思いが重なった。


「そうですか、元気があれば無理に受診しなくてもいいと思いますけどね、お母さんの心配は強そうですか?」

「初めてのお子さんらしくて、心配そうでした。どうしても受診したいというより、大丈夫かどうか相談したい雰囲気もありましたけどね。元気があれば大丈夫ですよ、って答えておきましょうか?」


 通常であれば喜んで診察するだろう、しかし日頃の疲れが重なり、かつ夜中、一秒でも多く休みたいという本能が胸の底からとても強力な説得力を持って、なんとかそうして欲しいと訴えていた。


「そうですね、でも心配だったら受診してくださいって伝えてください」


 はーい、と電話越しの看護師は言った。


「じゃあそう伝えておきますね、えーと、あれ? 2歳じゃなかった2ヶ月だった。ずいぶんちっちゃいですね」


 裕太の手に力が入った。そしてぼんやりとしていた頭に突如稲妻が落ちた。


「今2ヶ月って言いました?」

「はい、2ヶ月の赤ちゃんでしたー」


 裕太の手が汗でじっとりしてくるのを感じた。


「必ず受診させてください、今すぐでいいです」


 看護師はえ? と言ってから、わかりました、と電話をきった。


(危ないところだった)


 通常3ヶ月未満の乳児は風邪をひかない。ひかないというより、ひいてしまった場合は重症化する恐れがあるので、人類が生き残りをかけて風邪をひかない仕組みを手に入れた。それがお母さんの胎盤から赤ちゃんに渡される抗体と言われる菌を倒す武器だ。これによって乳児は守られている。それでも熱が出る場合は、重症化する恐れがある。また2ヶ月という月齢は髄膜炎などの命に関わる疾患にかかっていても、なかなか気づかれにくく、さらに悪化するのも早いため、常に最悪の事態を想定して治療を行う。

 原則全員入院し、あらゆる検査をし、重症疾患がないことを確認しなければならない、それが3ヶ月未満の発熱への対応だ。2ヶ月の発熱と2歳の発熱では天と地ほどの差がある。


 乳児が病院に着いたのは深夜0時を少し過ぎた頃だった。心配そうなお母さんに抱っこされる乳児は胸の中で眠っていた。怖いところはこれがぐったりして命の危険がある状態なのか、ただ眠っているのか判断がつきにくいところである。


「お兄ちゃんが咳、鼻水が先週あって、この子もおとといくらいから鼻詰まりがあったんです。それでさっき授乳してたらなんか熱いなと思って熱測ったら38.5度ありました」

「飲む元気はありましたか?」

「全然飲んでくれません、ぐったりしています」


 裕太は頭の大泉門と呼ばれる凹みを触った。髄膜炎の場合はここが膨らむ。心なしかふくらんでいるようにも感じたが、いまいちわからなかった。


「予防接種はしましたか?」

「それがまだなんです。予約はしていたんですが、ちょっと風邪気味だったんで、しっかり治ってからまた来てくださいと言われました」


(これはまずいな)


 裕太の表情が険しくなった。


「お母さん、この月齢の発熱には注意が必要です。怖い疾患がないか一通り調べさせてください。あと入院で見させて欲しいのですがいいですか?」


 お母さんは、はい、よろしくお願いします、と頭を下げた。


(さて、と)


 裕太がこれからすることは赤ちゃんの点滴をとることと、血液を採取して、培養と呼ばれる検査で菌が血液の中で増えていないかをみること、おちんちんに管をいれて、尿を特殊な方法でとること、そして背骨に針をさして、髄液というものを採取して、髄膜炎かどうかを調べることだった。

 これらはかなり手のかかる処置のため、日中であればできれば医師二人、と看護師含め、最低でも計3人はほしいところである。しかし今は深夜、動ける看護師は限られている、もちろん医師は裕太一人である。しかも、救急外来には経過観察の患者2人がベッドで休んでいるため、そちらも目が離せない。そんな中でこれらの作業をしなければならなかった。


「えーと、尿培養のカップはこれじゃなくて清潔なやつで……」


 ついてくれる看護師も小児科担当ではないため、手順や道具も1から伝えなければならない。ただでさえ神経の使う処置にも関わらず、まわりのサポート状況もいつもに比べかなり悪い状態での処置となる。これがさらにプレッシャーへとなって裕太に押しかかった。

 幸い点滴、採血は順調にいったが、裕太には気になることがあった。


(この子、全然泣かないな)


 不機嫌で泣く、というのは確かに良くないように思われる。しかし医師にとって最も怖いのは、泣く元気すらない、いわゆる「ぐったり」している状態だ。その場合は一分一秒を争わなければならない可能性がある。

 

「それでは最後、髄液検査ルンバールしましょう」


 今のところ、検査自体は全て順調に進んだ。幸いこの間、救急車依頼などは来ず、目の前の乳児の対応に集中できていた。そんな時、受付にいた看護師から裕太に声がかかった。


「城光寺先生、小児の受診依頼です」

「主訴はなんですか?」

「発熱です、風邪薬希望だそうです」


 裕太は、はっとした。


「まさか、矢部さんじゃないですよね?」


 対応した看護師はカルテを開いて確認した。


「えーと、そうです矢部さんです。なんか熱でぐったりしてるそうです」


(こんなタイミングでかよ)


 裕太は時計を見た。深夜1時半である。矢部さんと言えば、コンビニ受診の常習犯である。風邪薬もらうために救急外来ばっかり受診することで有名だった。看護師の中でもそれは有名らしく、それに気づいた看護師はああ、と息を漏らした。


「今忙しそうなんで、元気があれば明日受診してください、って言いましょうか?」


 裕太は、今まさに赤ちゃんの背中に大事な針を刺そうとしていた。


「そう、ですね。すんません、お願いします」


 すると看護師は、はーい、と言って去っていった。


 その後、裕太は何とか検査を終え、一息ついていた。幸い検査の結果は悪くなく、髄膜炎を疑うような結果ではなかった。迅速検査と言われる鼻をこすって5分で結果が出るキットから、RSウイルスと診断された。注意は必要だが、髄膜炎に比べればまだ見通しは良い。入院の申し込みと、お母さんへの検査の説明などが済むと、先ほど問い合わせたあった電話のことをすっかり忘れていたことを思い出した。ちょうど、先程の看護師が通りかかったので、声をかけた。


「矢部さん、何て言ってました?」


 看護師は、ああ、と言ってから、


「なんか、こんなにぐったりしてるのに診てくれないんですか、って怒ってました。じゃあいざとなったら救急車呼べばいいんですね! って怒鳴って電話きられちゃいましたよ」


 と苦笑いを浮かべた。

 救急車? 裕太はどこかで聞いた話を思い出した。コンビニ受診をする母親が受診を断られたら、その直後に119番で救急車を呼び、たくさん並んでいる患者を差し置いて、自分の子を先に受診させた、という話である。


(ひどい。こんな状態なのに、自分の都合で夜中に救急車呼ばれたら、みんな迷惑じゃないか。自分勝手にもほどがある)


 裕太は今のうちに仮眠と取ろうとソファに横になったが、いつ救急車が来るかと思うとなかなか寝付けなかった。それでも寝ないとやっていけない、明日も普通に仕事があるんだ、と思い必死で目をつむった。


 どれだけ時間が経っただろうか。

 裕太の胸のPHSがバイブレーションと共に呼び出し音が鳴った。


「——はい」

「救急搬送依頼です」


 はい、と眠気まなこで裕太は答えた。時計は5時半を指していた。


「八重山救急隊から碇山と言います。患者受け入れをお願いします」

「はい」

「4歳女児、発熱とぐったりで救急要請です」

「はい、受け入れ可能です。お名前教えてください」

「ありがとうございます。名前は矢部、矢部ひなたちゃん」


 え? と声が詰まった。


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