裕太が医師を志した理由とろうそく
「ぼくがいけないんだ、ぼくが……」
裕太には不思議な記憶がある。今となってはどこかも思い出せない建物の中で、自分が大声を出して泣いている。それを父と母が黙ってなだめている。声は聞こえない。
「ぼくがろうそくを消させてあげていれば、ノンちゃんは……」
そのセリフで記憶は幕を閉じる。
4歳の裕太にとって、2歳の妹が死んだ、という事実は当初理解できない事実として重くのしかかった。その「死」という存在が、裕太の心の大きな部分をひきちぎり、ぽっかりと何もない隙間ができた。その隙間のせいで、裕太の心はいびつな形になり、時間経過とともにそれをあたかも徐々に正常に戻っているかのように見せかけることはできるようになったが、元に戻ることは決してなかった。
成績が良かった裕太が高校の教師から医学部を勧められた時、すっと胸に落ちる感触があった。死とは何か、生とは何か、自分の中に空き続けたその穴を埋めるヒントがひょっとしたらそこにはあるかもしれない、そう思って2浪した後、医学部に入学した。
「…………」
忙しいとは聞いていたが、まさかここまでとは——裕太は自分が医師に向いていないのかもしれないと悩むようになっていた。他の医師は伊井も水野もなんだかんだ言って、それなりにここまでこなして来ている。それに比べ自分は……。
とりあえずは目の前の仕事を終わらせなければ、そう思って机に向かおうとした時、胸のPHSが鳴った。
『城光寺先生ですか?
「はーい、わかりました」
裕太はパソコンを閉じて、掛けてあった白衣を羽織ると、病室へ向かった。
*
翌日、裕太は外来当番の日だった。ペアの相手は千賀だった。
ちょうどここ数日小児科外来はRSウイルスによる咳、鼻水を訴える子どもたちでごった返しており、裕太が外来診療を始めようとした時、すでに数人の受診依頼の親子が待ち構えていた。
「よろしくおねがいしまーす」
裕太が診察室に入ろうとしたとき、篠原が、センセ! と声をかけた。
振り向いた裕太にじりじりと近寄ると、突然手を伸ばし始めた。
びくっ、とした裕太の肩を押さえると、そのまま裕太の寝癖を直し始めた。
「センセー、最近お疲れみたいね、少し休んだら?」
「休めたらいいんですけどね、他に代わりもいませんから」
裕太は目をぱちくりさせてから、充血した目をこすった。
「代わりなんていくらでもいるよー、いなかったらきっとそれはそれで誰かがなんとかするからさ。絶対無理しちゃダメだよ?」
裕太は、さっと肩に置かれた篠原の手を払うと、はい、と小さくつぶやいて、診察室に入った。その後ろ姿をしばらくじっと篠原は見つめていた。
どっしりと椅子に腰掛けてから、すでに積み重なっている、待ち患者のファイルを見て裕太は、はあ、と大きなため息をついた。
(そういえば、今日当直か。当直して、明日も仕事か……)
真っ暗なトンネル。多分出口は先にあるんだろうが、その光が見える様子は全くない。重い空気を吸いながら、べとっとした湿度の高いその空間をかすかに残った体力で、裕太はとぼとぼと進み始めたのだった。
*
午前の外来もいよいよ後半に差し掛かろうとしていた時のことだった。突然千賀が、裕太の使用していた第二診察室、通称ぺんぎんの部屋に入って来た。患者が待っていることを示すファイルは常に積み重なり、かれかれ二時間以上ノンストップでの診察が続けられていた。
「おい、これどういうことだ」
千賀が、とある患者のファイルを持って来た。
「なにがですか?」
「なにがじゃねえよ。なんで入院なんかさせてんだよ」
その患者は2歳の男児。RSウイルス感染の診断だった。裕太は千賀をちらっとみてから、視線を再びパソコンの画面に戻した。
「症状が出てから4日目で喘鳴(ぜいぜい言うこと)が出て来たのと、お母さんも心配だったので入院させました」
「は?
裕太は拳をぎゅっと握りしめた。
いつもなら、はい、わかりましたと言っていたかもしれない。だが、今日の裕太はどこかのねじが外れていた。
「RSウイルスなんで、これから悪化する可能性は十分あります。お母さんの気持ちに寄り添って満足させてあげる医療をして何が悪いんですか?」
「お前、馬鹿か。医者だったら患者を治せ、治すための環境を整えろ。ニヤニヤ、ニコニコしたいんだったらよそでやれ。ここにそんな医者はいらない」
沸騰し始めた裕太の血液は、今にも蒸発寸前となった。
「じゃあ聞きますけど、先生は何のために医療をやっているんですか? 患者さんを満足させるためじゃないんですか? 医学的に正しいことを並べて、説得して、全然患者さん満足してないのに言いたいことだけ言って帰して。そんなことやって何が楽しんですか? ニコニコして、話を聞いてあげて、少しでも満足させて帰してあげられることが医療の目的じゃないんですか?」
千賀の表情がパチン、となり、色が消えた。そのままゆっくり裕太の顔の前に顔を近づけた。
「あ? 意味わかんねえな。医者はな、病気治してなんぼだろーがよ。ニヤニヤニコニコして、患者助ける気がねえなら、医者なんてやめちまえ!」
そう言い捨てて、千賀は部屋を出た。
その様子を、篠原がじっと近くで見つめていた。それから怒りに震える裕太を見て、何か声をかけようとして、やめた。
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