劇症型心筋炎

「2歳の男児、数日前から咳、鼻水。38度の熱で来ました。水野先生どうしますか?」


 八反田はひょろなが、色白の男性医師だった。今年で医師となって7年目、ちょうど中堅クラスという若手を卒業しつつあるだろう年数になろうとしていた。


「いわゆる……カゼ、にみえますけど」


 水野がおどおどしながら答えた。


「そう、これは実際にあった症例なんだけど、僕も風邪薬をだして帰しました。その後どうなったと思う?」


 カンファレンスルームにはレクチャーをしている八反田の他に、水野、伊井そして九条がいた。九条は椅子にもたれかかりながら、はい、ともいいえ、ともとれない鋭い表情を浮かべていた。八反田はみんなが何も言わないのを確認してから口を開いた。


「翌朝には心停止、色々手を尽くしたんだけど、数時間で亡くなってしまったんだ」

「えぇぇぇぇ! 何でですか?」


 伊井が眼鏡を落としそうな勢いで、飛び上がった。


「色々な検査結果から、診断は『劇症型心筋炎げきしょうがたしんきんえん』だった。小児科医が稀に出会う、日常診療に潜む魔物だよ」


 水野は額に汗を浮かべながらつばをごくりと飲み込んだ。八反田はペースを崩すことなく続けた。


「心筋炎は心臓のカゼと言われている。カゼだから1週間もすれば何もしなくても治る。ただ……」


 カンファレンスルームは4人以外はおらず、時折廊下を通り過ぎるガチャガチャという何かの音が部屋に響いた。


劇症型げきしょうがたと呼ばれる症状が重い場合は心臓が止まってしまうんだ。つまり死んでしまう。心臓のカゼは死ぬカゼなんだ」

「うわっ、それってめっちゃ怖くないですか? どうすればいいんですか?」

「だから疑った時点ですぐに集中治療室ICUで管理をして、ECMOエクモをつなぐ。いわゆる人工心臓だね」


 通常人間は全身から帰って来た血液は心臓へ戻り、そこでポンプの要領でまた全身に押し出され循環している。

 ECMOエクモとは全身から帰ってくる血液を心臓ではなく、機械へ流し、また全身へ返す、つまり心臓の代わりをする装置だ。血液を全身に返す前に酸素を含ませることができれば、肺の代わりにもなる、つまり心臓と肺の役割を機械がこなしてくれるものだ。これがあれば心臓と肺がなくても人間は生きていける、ある意味最強のサポート装置だ。

 コロナウイルスでECMOエクモという言葉が知れ渡ることになったが、あれば肺のみを代わりをするV-Vブイブイ ECMOエクモというもの。ここで言うECMOエクモとはそれよりさらにグレードアップさせたもので、心臓と肺、両方の役割を果たしてくれるものだ。

 しかしこれだけの大掛かりの装置であれば、払う代償も大きい。

 絶えず流れ続ける全身の大量の血液を取り出して、再び入れるのだから、それなりに太い血管に機械とつなぐ管を入れなければならない。また、血液というものは体から出たら固まるようにできているので、血液サラサラの薬を多めに入れる。これが逆に脳出血のリスクを高める。また太い血管に管をいれると、そこから菌が入り込み敗血症に簡単に陥る。そう長いこと続けていられる装置ではなく、概ね1週間が目安と言われている。

 伊井が眉に皺を寄せた。


ECMOエクモですか……簡単な装置じゃないから、その判断が難しいですね」

「そう、でも手遅れになるとみるみるうちに状態が悪化して死亡してしまう。しかも迷っているうちに心臓が止まってしまうと、いざECMOに繋ごうと思っても血管がぺちゃんこになってしまって、管がいれられない。だから心臓が止まる前に色々な介入をしないといけない」


 だからむしろやりすぎてもいいんだよ、せずに手遅れになるよりは、と八反田は鋭い目線を凍らせて、伊井を刺した。水野が顔を乗り出して言った。


「あ、あのぅ。どうすれば見つけられるんですか?」


 突然九条のPHSが鳴った。はい、もしもし、そう言いながら九条は部屋を出た。八反田はそれをぼんやり眺めながら小さくため息をついた。


「ここからが大事なんだけど……ま、九条先生なら大丈夫か。じゃあ始めようか。心筋炎をどうすれば見つけられるか」


 それからの話を伊井と水野は食い入るように聞いていた。



 八反田のレクチャーが終わり、伊井と水野の二人は廊下を歩いていた。


「それにしても怖いな、心筋炎。絶対出会いたくないわ」

「八反田先生、色々な症例のネタ、持ってるねえ」

「ああ、先生で有名だからな」


 先生とは俗語で、その医師が担当する当直は大変な患者がくることが多いことを言う。


「でもぉ、経験しないと分からないから早めに経験しておいた方がいいよね」

「いや、経験しなければいいんだ。ずっと。そう自分が当直の日にはな」


 水野は、そうかなぁ、とぼそっとつぶやいた。

 その頃、3番診察室、通称キリンの部屋で、裕太はパソコンの画面を前に、ぼんやりと遠くを見つめていた。目の前にはやりかけの書類や、パソコンを準備してはいたものの、全く進む気配が無かった。そして壁にかかっている時計に目をやった。


(もうレクチャー終わったかな)


 裕太としても本来ならレクチャーを受けに行きたかった。

 しかし、山積みの仕事を前にどうしてもそれは叶わなかった。

 医師の仕事とは患者さんの診察をしているイメージだが、実際には診察している時間はほんのわずかである。ほとんどがカルテ記載や検査、治療のオーダー入力、診断書作成、サマリー作成。その他プレゼンテーションの準備、学会用のポスター作成などで時間を持っていかれる。担当患者が急に状態が悪くなれば、かけつけ、たった一人状態が悪いだけでも、1日のほとんどがその対処で費やされる。

 しかも病気は待ってくれない。だからこそ何を急いで、何が待てるのか、これらの判断ができないととてもじゃないが処理しきれない量の仕事が容赦なく積み重なってくる。

 通常であれば処理しきれず、潰れてしまう人が続出しそうなこの状況だが、不思議なことに医師はそれをやって退けてしまう人が大多数のため、問題にすらならない。それどころか処理出来ない人の方が少数派のため、それらの人を救う手立てや、サポートを用意しようという流れは発生しない。

 典型的なブラック企業の構図ではあるが、それを医師の使命感と、患者さんからの敬意、そして人口上位5%に入ると言われている高収入でみな乗り越えている。


 裕太は決して頭が悪い方ではなかった。むしろ上位に入れたからこそ医師になれた。しかし頭がいいだけでは仕事はこなせない。時に一生懸命で、時に手を抜く、つまりサボりどころをしっかり見つけないと走り疲れてばててしまう。この状況に裕太の心は荒廃しようとしていた。

 医師を志し、医学部を目指していた時の自分が、まさかこんな未来が待っているとは夢にも思わなかっただろう。病める患者にやさしく手を差し伸べる医師、そんなイメージを持っていた裕太だったが、実際は心の余裕を失い、目は血走り、患者さんのお母さんから「先生大丈夫?」と心配される毎日。もっと話を聞いてあげたいのだが、残念ながらそんな余裕はなく、診察も短時間で済ませて病室を去る。大事にしたかった心と心の交流は完全に後回しにされている。


 そもそもなんで自分は医師になろうと思ったんだろうか。

 裕太はゆっくりと、心の奥にある重い蓋を持ち上げてみた。

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