第四章:救急外来 魔物との戦い
前半戦:Impact
コンビニ受診
医局のソファで、伊井がふわぁ、と大きくあくびをした。
それを見て、弁当を片手に裕太が向かいに座った。
「伊井先生。眠そうだね。当直あけ?」
伊井は首の頷きで返事をした。
「ったく、コンビニ受診が多いのなんのって」
コンビニ受診とは、夜間や休日などの時間外にも関わらず、自分にとって都合が良いという理由で救急外来を受診することを指す。救急外来をまるでコンビニエンスストアのように利用する様を揶揄したものである。日中は仕事が忙しいから、混んでいて待つのが嫌だからなどの理由で救急外来を受診しに来るのだが、これが救急外来を圧迫して問題になっている。そもそも時間外は割ける人員が少なく、できる検査も少ない。そこに軽症患者が集まることにより、本来急ぐべき重症患者が後回しになってしまったり、スタッフにかかる負担が増えてしまう、などの問題点がある。
チン、と電子レンジの音がした。水野がレンジの中から親子丼の素と書いてあるレトルトを取り出すと、机に置いてあった持参したご飯にかけた。
「多いよねぇ、風邪薬もらいにきましたぁって、21時とかに元気に言われると、ここ救急外来なんですけど、って思っちゃう」
伊井はソファにもたれかかり、わずかな時間でも仮眠を取りたいのか、目を閉じながらしゃべった。
「夜中の0時に熱発の3歳の子が来てさ、見てみたらチャラい感じの両親。23時まで元気に遊んでたんですけど、熱が出たんで連れてきましたって。まず23時まで遊ばすなって。そして元気あるならまず寝かせてあげなさい、ってここまで出かかった」
そう言って喉に手を当てた。
裕太が取れたて海鮮天丼のえび天をつっつきながら答えた。
「この前は深夜3時に『便が白いんです』って訴えで2歳の子をお母さんが連れて来た。詳しく聞くと近くの小児科で『白い便が出たらすぐ来てください』って言われたから連れて来たんだって」
水野はレトルト親子丼を口に運びながら難しい表情をした。
「うーん、悩むねぇ、僕らからしたら朝まで待っても良いと思うけど、言われた方はすぐって言われるとすぐ、なんだろうね」
「水野っち、それは言ったクリニックの小児科医が悪いよ。『何かあったらすぐ受診してください』って言えば、自分の責任はなくなるからな。でも言った医師はその受診を診ることはない、なぜなら夜中にクリニックは閉まってるからな!」
伊井は言い終わると、残り少ないエネルギーが枯渇したのか、ゆっくり目を閉じ、再びソファに深く沈み込んだ。
それを横目に見ながら裕太は、えび天にかかった特性塩ダレとえびの旨味を口の中で確認していた。
「こっちが言いたいニュアンスと相手が受け取るニュアンスって違うことも多いからね。でもそれはお母さんには罪はないよな、だって心配だったから来たわけで。問題なのは確信犯だよ、矢部さんみたいなタイプ」
伊井の目がカッ、と見開いた。
「そうそう、昨日も来たよ。23時過ぎにちょっと眠れる時に寝ようかなと思ったら、電話来てさ、『熱が出ちゃいました、お薬もらえますか』って。日中は仕事があって来られないんですよって」
矢部さん、やべぇよ、と付け加えた。
「へぇ、伊井先生。それでどうしたの?」
「断った」
裕太は思わずえび天をひっかけ、むせ込んだ。
「うそ、電話で?」
「だってぇ、和気先生も患者さんの受診依頼は断るなって言ってたよぉ? 何があるか分からないからって。よっぽどのことがなければって」
「よっぽどのことだろう。常習犯だ、ちょっと分からせてやらにゃいかん」
水野のそろった前髪の下にある小顔は、一気に血の気が引いていた。
「ぼくには絶対できないよ、だって怖いもん」
「だいじょぶだって。実際に状態悪くなってたら、今頃受診してるって。来てないってことは大丈夫ってこと!」
それって、連絡来た時はすでに遅いじゃないか、と思いながらも裕太は取れたて海鮮丼の
「今日って八反田先生のレクチャーの日じゃなかった?」
伊井もぱっと目を見開いた。
「あっ、やべ、もう始まってんじゃん。一人で待ってるかも、急がんと。裕ちゃんも早く食べて」
「あ、俺パス。さっき入院した子の指示まだ出せてないし、今日までのサマリー5人分残ってるから」
サマリーとは患者が退院した後、入院していた時の内容をまとめたものである。原則退院してから2週間以内に完成させなくてはならず、経過が複雑な場合、かなり時間が取られることも多い。放っておくと、入院中の記憶が薄れ、どんどん内容を書きにくくなりさらに時間が取られるという悪循環に陥る、これをサマリー地獄という。
「裕ちゃん、でも今日
問いかけられた水野は、ちょっと僕にも分からないな、と首を傾げた。
そんな会話も裕太の耳には全く入って来なかった。
「最近やんなきゃいけないことたまっててさ、学会の準備も全然できてないし、サマリーも溜まってるし。市役所行って書類も貰わなくちゃいけないのにそういった身の回りのことも全然できてないからさ。いつ出会うか分からない稀な疾患より、とりあえずは目の前のことかな」
そう言い捨てると、そのまま医局を去った。
それを心配そうに見つめる水野。
「城光寺先生、大丈夫かなぁ。最近全然レクチャー出れてないよねぇ」
「あぁ、あいつああ見えて不器用なところあるからな。妙に真面目っていうか、手の抜きどころを知らないっていうか。俺が言うのもなんだけど、いつか大きなミスしなきゃいいけど」
裕太の机の上は大量の書類であふれかえり、提出期限が1週間前の日にちが記載された用紙が一枚、ひらりと床にこぼれ落ちた。
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