北極に潜むクレバス、本当に怖いものとは
「あ、は、はい」
裕太の頭が真っ白になった。
(まさか、矢部さん本当に救急車呼んだのか? 仕事が始まるちょっと前のこの時間に、風邪薬もらうためにか? ふざけるなよ)
それからの会話はほとんど頭に入らなかったが、救急隊からの要請である以上、断るわけにもいかない。裕太はこのことを看護師に伝えた。
「えー! 矢部さん本当に救急車呼んだんですか?」
裕太はうなだれた。
「もう少しで当直終わりなんだから……寝させてくださいよ」
本当よね、嫌味の一つでも言ってやろうかしら、そうつぶやく看護師は裕太と違ってはつらつとしていた。
やがて救急車のサイレンが遠くに聞こえ、徐々にその音が大きくなった。裕太が搬入口で仁王立ちをして待った。一体矢部の母親はどんな顔してやってくるんだろうか、思いっきり態度悪くしてやろう、そんなことも考えていた。
救急車の後部ドアが開き、患者の母親が降りてきた。
しかし、その光景を見て、裕太は言葉を失った。
(なんで?)
矢部ひなたちゃんは救急隊によってストレッチャーと呼ばれる患者を乗せる台の上で胸骨圧迫、いわゆる心臓マッサージをされていた。裕太の頭にかかっていたもやもやが凄まじい衝撃と共に吹き飛んだ。
「ちょっと待ってください、なんで胸骨圧迫してるんですか?」
「車内で心停止しました。AEDも一回作動しています」
(うそだろ)
裕太は全身の力が抜けていくのを感じた。
風邪であれば命を落とす危険はほぼ0に等しい。しかし胸骨圧迫をされている状態という時点で、命を落とすリスクは跳ね上がる。それでもまだ、慣れていない救命士が心停止と誤って判断し、胸骨圧迫している可能性もあるかもしれなかった。しかし自動体外式除細動器であるAEDが作動している時点でその可能性はほぼなくなった。AEDの性能は非常によく、誤作動によるトラブルはほぼないと言われている。それが作動しているということは命の危険が紛れもなく迫っているということを意味していた。この瞬間、この子が数時間後生きているか死んでいるかはほぼ五分五分、コインの表裏の関係になった。
看護師も目の色を変え、急いで心電図のモニターなどを装着した。
「ちょっと一旦胸骨圧迫止めてもらえますか」
心電図の波形をみて、胸骨圧迫が必要かを判断するのだが、胸を上から押している状態では、しっかりと心電図を読み取ることができない。救命士の手が止まると、それまでぐじゃぐじゃだった心電図が徐々に波形を表示するようになった。それじっとみる裕太。
「一旦胸骨圧迫はやめられそうです、血圧測れましたか?」
「ダメです、でも末梢の脈はしっかり触れます」
「一通り検査進めましょう」
まどかはベッドの上でぐったりしていた。
心電図の波形もいわゆる頻脈と言われる早い脈ではない、血圧も測れるようになってきた。体の中の酸素の値であるSpO2も98%と十分ある、一見すぐに分かるデータは異常なし。ではなぜぐったりしているのか、なぜAEDが作動したのか。今の裕太にはさっぱりわからなかった。点滴と採血を終え、裕太がひなたのカルテを遡り、何か特殊な病気を思わせる経過はなかったかを調べた。
(いつも救外受診だから、あまりしっかりと病歴を聞けてないんだよな)
見る限りは何か特別な疾患を思わせるような記録はない。じゃあなんで……。
パソコンの画面に集中していた裕太だったが、後ろから聞こえるはずのない人物の声が聞こえた。
「なんでこんなになるまで放っといたの」
看護師が、電話相談はあったんですけど、ちょっと忙しくて……と言葉を濁らせた。裕太が振り返ると、そこに見えたの九条の姿だった。九条が
「なんで九条先生が?」
裕太の声が鋭くなった。正直この状況で来てほしくない人物だった。またどうせ自分の知識をひけらかし、裕太を小馬鹿にするんだろうと思った。看護師の一人が、
「すみません、急変だったんで九条先生いるの知ってたから呼びました」
と申し訳なさそうに答えた。
(余計なことして……)
裕太の胸がぞわっとした。
そんなやりとりにお構いなしに九条は声を上げた。
「MEさんよんで、
看護師は、え、あはいと答えた。
「ちょっと待って」
裕太は九条の前に立ちはだかった。
「なんで勝手にそういうことするんだよ。この子は自分が対応してるんだけど」
「見てみろよ。心筋の動きが落ちてる。心電図もおかしいだろ」
エコーの画面に心臓が映し出されていた。その動きは裕太が見てもわかるくらい動きが落ちていた。
「心電図は見たけど頻脈はないよ」
「は? どう見ても
心筋炎……?
その言葉の響きが、まるで水風船が割れるようにパチンと頭の中に響いで、遠い記憶が呼び出されそうになって、それを必死に止めた。
「勝手なことしないでくれる? 今採血結果待ってるから、それからでも遅くないだろ」
「その間に心臓止まるよ、この子」
裕太は九条を睨みつけた。
「そんなのやってみないとわからないだろ」
そこまで聞いて九条はエコーの手を止めた。それから持っていたプローブと呼ばれる先端を放り投げた。
「勝手にしろ」
そう言い捨てて、
「先生、血液検査の結果が出ました」
裕太が食い入るようにその結果を見つめた、そして言葉を失った。
血液検査で表示されるあらゆるデータが著しい異常値を示していた。中でもpHという酸性アルカリ性を示す値は7.0より低いと著しい異常値とされているのだが、
「6.8——。まずい、本当に死ぬかも」
九条の言っていたことが現実味を帯びてきた。裕太はその場に立ち尽くした。
(どうすれば、いいんだ?)
その時バタバタしていた看護師がつぶやいた。
「心電図のモニター、ついてる?」
心電図の波形が
もう一人の看護師が胸につけていたシールを確認した。
「モニターはしっかりついてる、よ。ということは……あ、先生まずい心停止だ。
そう言って、胸を一定のリズムで押し始めた。いわゆる心臓マッサージである。力強く押されるたびに、小さなまどかの体が無気力に、そして大きく揺れる。それはまるで人形の胸を押しているようだった。
心筋炎……なのか?
裕太の中で、先ほど湧き上がりかけていた記憶が蘇ってきた。
それは裕太が医学部に合格して、一人暮らしを始めるまでの3月の春の日のこと。気温が徐々に上がり始め、誰もが新しい生活に胸を馳せていたそんなころだった。裕太は父に思い切って妹の
「父さんたちはね、あの後
裕太もぼんやりではあるが、亡くなる直前まで
「そしたらね、たぶん『心筋炎』だろうって言われたんだ、そうたぶんだ。お父さんたちにはさっぱりわからなかったんだけど、そういう突然死んでしまう病気が稀にあるんだって。全然納得がいかなかったけど、それ以上は何も教えてもらえなかった」
そう言って父は唇を噛んだ。16年前の記憶にも関わらず、父にとって今でも鮮明に刻まれているように裕太には見えた。
「『解剖しますかって聞きましたけど、しないっていいましたよね。しなかった以上はこれ以上わかりません』って言われた。あんな状況でいきなり『解剖しますか』なんて聞かれても——父さんたちには全然わからないよ」
原因がわからないまま突然命を落とした場合など、その原因を解明する目的で病理解剖、という選択肢がある。頭から足の先まで、必要な部分は解剖、つまり切り開いて、体の隅々まで異常がないかを調べる。これによって、今まで全く予想していなかった異常が見つかったり、原因がわからなかった死因がはっきりする可能性があるというメリットがある。しかし、そのする、しない、の判断は死亡後すぐ行わなければならず、ただでさえ死の受け入れすら困難な状況なのに、原因解明のために体を切りますか? なんて聞かれても通常はなかなか、はい、とは言いにくいのが現状である。
「亡くなってしまったことは確かに悲しい、でもしょうがないとは思ってる。大事なのはそれを患者さんが受け入れられるような配慮を持てる事だと父さんは思ってる。裕太はそれが出来るようなお医者さんになってな」
裕太はもう一度、目の前にあるあと少しで消えてしまいそうな命の灯火をみつめた。
この子が心筋炎で死ぬ? これじゃ、ノンの対応をした医者と同じじゃないか、何て説明する? 突然死にましたが、そういうこともあるんですよって? 何で電話したのに診察してくれなかったんですか、って言われるに決まってる。俺は父さんが、そんな風にはなるな、と言われていた医者まんまじゃないか。
先生、先生……。
そんな声が遠くで聞こえた。目の前の世界がぼんやりと歪み始めた。あと少しで倒れそうになってしまいそうだったその時、その先生、の意味が自分ではないことにやっと気づいた。
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