丸腰で虎に挑む

「失礼します」


 時刻は20時。

 千賀は3番診察室、通称キリンの部屋にいた。レセプトと呼ばれるその月に自分が行った診療に対し、つけた病名が間違っていないかなどを確認する作業をしていた。


「あ?」


 千賀は水野を見ずに答えた。


「あのちょっといいですかぁ」

「忙しいんだけど」


 水野はぐっとこらえた、ここで逃げちゃだめだ、そんな思いが背中を押していた。


「嵯峨山さんのことなんですが」


 千賀は聞いているのかいないのかわからない様子で、大量の紙をぺらぺらとめくっていた。


「看取り……できないんですかね」


 しばらくして、千賀の手が止まった。それから鬼の形相で水野を睨んだ。


「お前……自分の言ってることわかってんのか?」

「子どもを助けたい気持ちはあります、でも母親が追い詰められていて、育てられる環境じゃないんだったら、そこに生まれてくる子どももかわいそうだなって。普通の子どもだったらいいんですけど、生まれた後も手術を何度も受けなくちゃいけないし、それ考えたら……」

「お前、子どもはどうやってできるか知ってるか」


 千賀の声のトーンが低く、冷たくなった。


「え、あ……あの」

「セックスだろ。そんで妊娠する。まずその時点で、子どもができて、自分が親にならなくちゃいけない可能性があるってことは、まっとうな人間ならわかってたはずだ。それが望まぬ妊娠をさせらた時などのために中絶がある、違うか?」


 水野は全身に力が入らず、手のひらがじめっと冷たくなるのを感じた。


「それでも妊娠を継続した親は、子どもを育てるって決めたのと一緒だ。どんなことがあってもな。あの親だって同じだ、決めた以上、死ぬ気で育てるって約束したんだよ、自分の子どもと。それを普通に生まれた子だったら育てます、病気があるなら殺します、なんてのが通ると思ってんのか、お前は」


 水野は喉元が苦しくなってきた。このまま窒息してしまうのではないかとさえ思った。


「お前が言ってるのは、気持ちいいからセックスして、よくわかんないけど子どもが生まれて、好き勝手名前つけて、でも生まれてみたら子育てって思ったより面倒くさくて、だからポリバケツに押し込んで殺しましたー、ってゆう親とやってること同じだぞ!? 子どもはどーすんだよ、もしお前がお腹の中の子で、この世に生まれようとしているのに、母親が『ちょっと育てるの無理』って言って、放置して殺されて。それでもわかりました、死にますって言うのか? お前は」


 水野はうつむきながら、腹の底から声を絞り出そうとした。瞼が少しずつ湿ってきた。


「僕は……それでもいい、って言うと思います。お母さんがそう言うなら」


 千賀は今まで膨らみに膨らんだバブルが、ぽわん、と可愛い音を立ててはじけたように、全身の力が抜けた。それから大きなため息をついた。


「お前、そこ座れ」


 千賀は小さい丸椅子を指さした。水野がそこになよなよと座り込んだ。


「『お七夜』、って知ってっか?」

 

 水野は小さく首を振った。


「生まれてきた子の生後七日目を祝う儀式だ、最近はしない家庭も多い。ここで命名式なんかしたりするんだ」


 水野は床を見つめながら、一つ鼻をすすった。


「なんで七日目にするかわかるか? 昔は生まれてもすぐお祝いをしなかった、なぜなら1週間で死ぬことが多かったからだ。でも1週間生き延びた子はその後しばらく生き続ける、だから生まれてから1週間経つまでは神様の子として扱われた。そこで死んだ場合、神様の元へ帰ったと。でもそれ以上生きた場合、初めて自分たちの元に生まれて来た子だと認める。だからそこで初めて名前をつける」


 千賀の声は低く、一定で、先程の荒々しさは幾分収まっていた。


「今では大体わかってる。この1週間で死ぬ理由は心疾患(心臓の病気)だ。小児循環器で扱う病気は胎児(お腹の中にいる赤ちゃん)の時は生きられるが、出生し体の構造が劇的に変化するのに耐えられず問題が起こる病気がほとんどだ。この変化が大体1週間で起こる。何も治療をしなければそのまま亡くなることも珍しくない。昔はそんなの分からなかったからな、神様の子だったんだと諦めるしかなかった。でも今はそれが分かるようになった、そしてほとんどが問題なく治せるようになった。あの時助けたくても助けられなかった命が、当たり前のように助かるようになったんだ」


 千賀は水野を見ていなかった、遠くを見るように、しかしその鋭い視線は変えなかった。


「だが今度は助かるのが当たり前になると、『助けないといけなく』なった。生存率10%の疾患で命を落とした場合、親を含め周りはまだ納得するかもしれない、ただ95%以上助かる命を落とした場合、医師は責任を問われることもある。しかも親がそれをしたくないと言っても、我々は『助けないといけない』、医療ネグレクトにあたる可能性が出てくるからな。

 その昔、助けたくても助けられなかった命は今、看取りたくても看取れない命になっている、そういう時代だ。我々は生まれる時代を選べない、こんな時代に生まれた以上、やるべきことをやらなきゃいけないんだよ」


 千賀は明らかに水野に語っていた。しかしそのいくつかは自分自身に問いかけているようにも見えた。それから、一瞬だけちらっと水野の方を見た。


「お前、医者だったら子どもを殺すことじゃなくて、助けることを一生懸命考えろよ。そんなに看取りたいんだったらお前、医者向いてないよ、今からでも遅くない、別の道進んだ方がいいんじゃねーのか」


 それから、ごめんまじで忙しいから出て行ってくれる? と冷たくつぶやいた。それを聞いて、水野は一礼すると部屋を出た。


 その晩、水野は美菜に電話をかけることにした。

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