嵯峨山美菜という母の希望

 今週も水曜午後五時からカンファレンスは行われていた。ちょうど最後の患者のプレゼンテーションが終わった時だった。山田が自分の腹を一つ、たぷん、と叩いた。


「そういえば、千賀先生。無脾症の子は順調かな?」


 千賀が前を見たまま答えた。


「はい、順調です。子どもの方は」


 横で聞いていた水野に緊張が走った。手先の温度が一気に下がった気がした。


「子どもの方は、というと?」


 千賀の返答の歯切れが悪くなった。


「はい、母体の方に問題があります」


 他の医師はカンファレンスが終わり、皆ぞろぞろとカンファレンスルームを出て行った。水野だけは出るに出られず、椅子にすわったままじっと机を見つめていた。


「何か疾患が?」

「いいえ、そうではありません。母体は健康です」

「じゃあ、一体何が?」


 千賀は山田の方をふりむいた。


「母が看取りを希望しています」


 看取りぃーっ!? と素っ頓狂な声を上げた。


「どうして。胎児に問題はないんでしょ」

「はい。今の状況と、これから推測される起こりうること、全部話しました。その後、ネットで調べたか、知人に聞いたか、とても自分では育てられない、だから看取らせてほしい、と言い出しました」


 山田が渋い表情を浮かべ、ひげをしごいた。


「家庭環境に問題でも?」

「籍は入れていないようなので、シングルマザーになるかもしれません。祖母は健在で家も近く、サポート環境は問題なさそうです」

「じゃあ、なぜ?」

「さあ、わかりません。今考え直してもらっていますが、これだけ助かる見込みの高い児を看取るなんてありえません。もし最後まで母親が考えを変えなかった場合は……」


 水野は少し離れたところで座っていた。聞いていないそぶりを見せていたが、喉元に胃酸が込み上げる感覚が押し寄せていた。


「医療ネグレクトに当たる可能性があります」


 ネグレクト、とは虐待の一種で、いわゆる殴る、蹴るという虐待とは別で、すべきことをしない虐待を指す。つまり食事を与えなかったり、本来なら病院へ連れて行くべきなのに行かせなかったりとすることをいう。中でも然るべき治療を受けさせないことを医療ネグレクトと言い、今回は助かるはずの命を助けない、という母の行為が医療ネグレクトにあたる、と千賀は言った。


「それでどうするの?」

「出産後、親権を剥奪して、患児を治療します。治療には親の同意が必要ですから、親権が嵯峨山美菜にあるうちは治療できません。なので、親権を他の人へ移してから治療をします」


 山田はうーん、と唸った。


「なんだか、穏やかでない話になってきたね、なんとか考えを変えてくれるいいんだけど」


 そう言いながら、部屋を出た。

 水野はカンファレンスルームに独り残された。そしてあの日の美菜からの電話を思い出していた。


『水野君、お願い! 助けて』

『どうしたの?』

『なんか、お腹の中の子、大変なんだって』

『そっかそっか、大丈夫だよ、うちの病院専門家もいるし』

『いや、そうじゃなくて……堕ろしたいの』

『堕ろす、って中絶ってこと?』

『そう、だって私一人じゃ育てるの無理よ、仕事もしなくちゃいけないし、お母さん足悪いし。生まれてからも手術、いっぱいして、病院にもたくさんいかなきゃいけないんでしょ。それで障害が残ったら、お世話もかなり大変ってネットに書いてあったし。それで堕ろしたいっていったら、無理だった』


 現在の法律では22週以降は中絶はできないことになっている。美奈は24週を過ぎていた。


『そうだね、だから……』

『だから、看取らせてほしいの』


 水野は息を呑んだ。描いていた未来がパリーン、と音を立てて割れた。


『え?』

『生まれてきて、そのまま看取り。ドラマとかでも見たことあるし、水野くんも知ってるでしょ』

『知ってるけど、嵯峨山さんのお子さんは生きられるんでしょ?』

『でも、育てるの無理だもん。まだきっとチャンスはあるし、今回はかわいそうだけど看取らせてほしい。でもそれ言ったら、あの先生がダメだって。そこでお願い、水野君お医者さんでしょ? なんとかあの先生説得して、看取らせて欲しいの!』

『え……ああ、そう……だね、できるだけやってみようか』

『ほんと? ありがとう! 頼りにしてるからね、よろしくね水野くん!』


 その夜、水野は考えた。

 何が正しくて何が間違っているんだろう、てっきり親っていうのは子どもが生まれてくることを無条件に喜んで、楽しみにしてそれに向かってみんな考えは一致していると思っていた。でも母親が育てられないと判断した場合、どうしたらいいのだろうか。子どもは? 母親は? 優先されるべきことはなんだろう、考えても答えは出なかった。


 しかし美菜と約束してしまった以上、水野は全力を尽くさなければならない。水野は単身、千賀の元へ行くことにした。

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