無脾症

「なるほど、内臓心房錯位症候群というのは、体の真ん中に鏡をおいて、どちらかを映したような構造になっているのか……」


 図書室で真剣な眼差しを教科書にぶつけている水野の後ろから、裕太がにゅっと顔を出した。


「水野先生」

「うわっ、びっくりした。ごめんね、びっくりして」

「いやいいよ、ってか謝るのこっちの方だし。無脾症の勉強か、俺も全然わかんないから、教えて」

「いいよ。人間の体って見た目は左右対称だけど、中の臓器はそうじゃないでしょ」

 そう言いながら、水野は紙に絵を書いた。


https://kakuyomu.jp/users/k1sh/news/16816700426926133205


「そんで、体の真ん中に線を引く、これが鏡だと思って。そんで右側をそっくりそのまま左に映したのが右側相同、左側をそっくり右に映したのが左側相同ね」

「なるほど」

「脾臓は左側にあるよね、だから右側相同の人は脾臓がない、だから『無脾症』、左側相同の人は脾臓が二個ある、だから『多脾症』と呼ばれているんだ」


 おお、と裕太は声をあげた。


「先生! よくわかりました」

「それでね、心臓の事だけいうと、多くの人が3回手術をしないといけないんだって。でも今の医学であれば10年生存率(10年間生きられる割合)は1990年の時点で93%と言われているから、今はもっと高いかもしれない」

「そっか、じゃあ嵯峨山さんも大丈夫だね」


 ひえっ、と声をだして水野が飛び上がったため、教科書が地面に落ちた。分厚い塊が水野の足を直撃し、とてつもない激痛が走った。


「痛った……」

「大丈夫?」


 うん、と言いながら水野は足を必死でさすった。


「城光寺先生、知ってたんだ」

「そりゃそうでしょ、俺ら応援してるからさ」


 そう言って、水野の肩をポンと叩いた。


「それにしてもさ、嵯峨山さんって何で名前旧姓なんだろ」

「実は僕もそれ気になってて……」


 突然入り口から声が聞こえた。


「そりゃ決まってるだろ」


 図書室の入り口で、体を預けながら、クールにチリチリ前髪をかき分ける男、伊井がそこに立っていた。


「彼氏に逃げられたか、訳あって籍を入れられないか。どちらにしろあの娘は一人で寂しい思いをしている、今は不安でいっぱいだ。そこに昔の友人である水野っちが現れる。しかも医者だ。そして色々不安を聞いてあげるうちに……」


 伊井がいやらしい目を見せた。


「生まれてくる子のお父さんは水野っちかもな」

「そ、そんなことないよ。僕はただ……」


 裕太が横からひじでぐいぐい水野を押した。


「何言ってんだよ、願っても無いチャンスだぜ? とりあえず電話してみたら? 連絡先知ってるんでしょ?」


 水野はぽんわりと、妄想を膨らませてみた。


『水野くん、とっても頼りになるわ』

『いやいや、それほどでも……』

『私には水野くんしかいないの』

『そ、そう? 僕でよかったら……』


 しばらくして、首をぶんぶん振った。


「いやいやいやいや、僕はあくまで医師として——」


 はいはい、と言いながら、裕太と伊井は図書室を出た。

 その後、一通り勉強を終えてから、水野は家に着いた。


 時刻は夜の8時。

 水野はかれこれ1時間以上、スマホとにらめっこをしていた。画面には嵯峨山 美菜の連絡先が表示されている。


(あとは、ここを押すだけなんだけど……でももし何かしてたら迷惑だよな、今って夕ご飯時だし……でも夕ご飯終わったら今度は寝る準備してるかな……ゆっくり休んでる時にいきなり電話かかってきたらお腹の赤ちゃんびっくりするかもしれないし……)


 散々悩んだあげく、


(よし、もう押してみよう!)


 そう決意したその時、


(待てよ、「なんで私の病気のこと知ってるの?」って言われないかな? 病気って個人情報だから、勝手に知り得てはいけないことになってるし、それで怒らせて信用を失ったら大変だ。やっぱり電話はやめておこう)


 そう決めた直後だった。

 ブー、ブー、というバイブレーションに、水野は飛び上がった。


「うわっ、びっくりした!」


 慌てた拍子に、机の上のスマホが床に落ちた。急いで拾い上げて画面を見る。そこに表示された名前をじっと見つめた。


「嵯峨山……さん? なんでぼくに電話?」


 取るか取らないか、取ろう、そう思って水野は画面をタップした。


「あの……もしも……」

「水野くん!? お願い、助けて!」


 突如訪れた美菜からの電話。その話をひとしきり水野はただただ聞いていた。その話の長さは予想を優に超え、終わった時はもう夜中だった。電話を切ってからも、水野はその内容のことを考えると全く眠れる気配がしなかった。気づけば朝になっていた。

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