嵯峨山の子は重症心疾患だった

 裕太の口がぽかんと開いた。


(嘘だろ? しろって言っただろ、この人)


「ほらね、城光寺先生。次からは考えて検査するように」


 裕太は、はい、と元気なく答えてから席に戻った。すかさず伊井が得意げに耳打ちする。


「どんまい、裕ちゃん」


 裕太は答えなかった。和気への落胆もあるが、九条の言い方が気に入らなかった。正しいことであれば何言っても良いのか、あんな言い方では自分のメンツ丸潰れじゃ無いか、言い方ってもんがあるだろう。これだから患者さんからの不満も多いんだ、と先日篠原が言っていたことを思い出した。


『九条センセ、言ってることは間違ってないんだけど、なんか冷たいというか、融通が効かないっていうか……。お母さんの悩みに寄り添う感じが乏しいんよね、九条先生以外でお願いします、っていうお母さんも結構いるみたい』


 裕太は思った。知識だけじゃだめだ、相手の気持ちをわかる医者にならなきゃ。自分はあんな風にはならないぞ、と心に決めた。

 裕太のプレゼンテーションが最後だったらしく、カンファレンスも終わりを迎えようとしていた。その時、山田が、あ、そうだと声をあげた。


「千賀先生、そういえば胎児エコー(お腹の中の子にエコーを当てる)で心疾患が見つかった人がいるんだっけ」


 千賀はああ、と言いながら、黙ってカルテを開いた。すると連動して前の大画面にその内容が映し出された。


「母親の名前は嵯峨山 美菜さん。現在妊娠24週です。診断は内臓心房錯位右側相同ヘテロタキシー、いわゆる無脾症です」


 水野はどきっとした。

 目を大きく見開き、カルテを映し出す正面の大画面に釘付けになった。


「ああ、無脾症ね。結構重症ヘビーな心疾患が来たね、順調そう? 中絶は……もう24週だから無理か」

「はい、24週だからというか、よほどのことな無い限り中絶の対象にすらなりません。10年前はまだ治療成績も悪く、亡くなる子もそれなりにいて重症例は看取ることもありましたが、今ではほとんどの子が元気に大人になってますから」


 山田がにこにこしながら口髭をしごいた。


「そうか、医学の進歩はめざましいね。私が若い頃は、無脾症で看取りの話をしたこともあるよ。へえ、今は元気に過ごせる時代になったんだね、素晴らしい! じゃ、みなさんお疲れ様」


 その声に合わせて、皆席を立った。椅子を引く音、机を移動するガチャガチャという音がカンファレンスルームに溢れた。そんな音も聞こえないほど、水野は愕然としていた。


(嵯峨山さんのお腹の子が……無脾症?)


 ふと水野は小学校の頃の思い出、心の奥底にしまいこみ重い蓋で押し込んでいた記憶をゆっくりと紐解いていた。


 小学生の水野から見てもわかるくらい、美菜の家はどうやら裕福ではなかったようだ。着ている服も汚れており、目もうつろ、ぼそぼそと喋っていたため、いじめの対象になることも多かった。


「やーい、嵯峨山のペンについてるうさぎ、きったねー」


 男子が美菜の持っていたペンを取り上げ、みんなに見せびらかした。


「返してよ」


 取ろうとした美菜をひょいと避けると、男子がそれを他の人に渡すべく、放り投げた。それが、他の男子にあたって地面に落ちた。


「なんだよ、投げんなよ」


 当てられた男子が振り返った時に、床にあるそのうさぎのペンを勢いで踏み潰した。


「あぁ」


 美菜が駆け寄ってそのうさぎのついたペンを拾い上げた。


「どうせ元々汚れてんだから、かんけーねーだろ」


 美菜はしばらくうずくまっていた。それからゆっくりと机に戻ると、そのペンを握り閉めたまま、机に突っ伏してすすり泣いた。それを誰も慰めようとはしなかった。美菜に近づけば、次自分がターゲットにされるのを、皆何となく分かっていたのだ。

 水野も同じくその部屋にいた。本当なら今すぐ近くに行って、慰めてあげたかった。しかしその時の水野にその勇気はなかった。ただただ遠くで見つめ、何もできない自分が歯痒かった。

 ある日、美菜が転校することになった。親の仕事の都合で東京に行くとのことだった。その日が水野と同じ学校にいられる最後の日だった。


「嵯峨山さん」


 帰りの会が終わってから、水野は勇気を振り絞って美菜の元へ駆け寄った。そして黙って、家で作ってきたものを渡した。虹色の折り紙で作った鶴だった。


「元気でね」


 と声をかけると美菜は、ありがと、と少し笑った。それが水野の見た美菜の最後の姿だった。

 ずっと助けたかった、何とかしてあげたかった。でもあの時はそれができなかった。でも医師となった今ならできるかもしれない、あの時できなかった、美菜を助けるということが。


「よし!!」


 腹の底から声を出して自分に檄を飛ばすと、水野は立ち上がった。そして図書室へ向かった。


(一生懸命勉強して、嵯峨山さんが安心してお子さんを産んで、笑顔で子育てできるよう、助けるぞ)


 そう決意したのだった。


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