執行猶予

 あの事件から数日経ったある日の午後。外来の休憩室に裕太と水野は座っていた。


「センセー達、おつかれ〜」


 そう言って、篠原が中瓶に入ったドリンクをどん、と机に置いた。外来が少し落ち着いたので、おやつタイムにしよう、という提案だった。瓶は全部で4つ、中身の色はオレンジだったが、外側のラベルには日本語でも英語でもない言葉が書かれていた。それを篠原が手際よく栓抜きで栓を抜いていった。


「さ、さ、飲んで飲んで」


 そう言いながら、一つの瓶を手に取ると、篠原が一気に飲み干した。水野はその瓶をまじまじと見つめていた。


「篠原さぁん、これってひょっとしてめちゃくちゃ高いやつじゃないですか? 一本800円くらいの」


 裕太も一口飲んでから、外観を再び眺めていたが、水野はまだ口をつけられないでいた。


「これぇ、確かスペインからの輸入品で、一時期有名になったやつですぅ。ぼく、昔友達からお土産でもらったことあるんですけど、1日25mlを10日に分けて飲んでました」

「25ml? ……それ、おいしかった?」

「んー、結局少しずつだったから、味はよくわかんなかったかな。しかもまだ半分くらいのところで倒しちゃって、結局全部飲めなかった」


 そう言いながら、水野はしばし瓶を見つめていた。その様子を眺めながら、篠原はソファに、どーんともたれかかった。


「へぇ〜、これそんなに高いの? アタシが買ったわけじゃないからわかんないや」

「どうしたんですか、これ」

「なんかねー、伊井センセが、大量に置いてった。冷蔵庫にまだたくさんあるよ」


 そう言って冷蔵庫を開けると、中には同じ瓶がぎっしり詰まっていた。ちょうどその時、伊井が休憩室に入って来た。


「お呼びですか?」

「お、伊井センセ、お茶しよ。センセーのくれたドリンクでさ」


 伊井はぺこぺこしていた。


「あ、じゃあコップ持って来ますよ」

「いいって、アタシ一気飲みしちゃったから」

「いやいやいやいや、いいです、持って来ますから」


 そう言って伊井はコップを取りに給湯室へ行った。


「なーんか、伊井センセー、あの日からあんな感じなんよね」

「当然ですよ、篠原さん。だって篠原さんは伊井の命の恩人ですから」

「ぼくもそう思います。篠原さんいなかったら、今頃伊井先生ここにいないですからね。この前なんか篠原さんのこと篠原先生って言ってましたよ」


 休憩室は一気に笑いで包まれた。

 しばらくして、伊井がコップを4つ持って入って来た。


「あの、篠原さん、患者さんが来てるみたいっす」

「あー、嵯峨山さがやまさんね。すぐ行く」


 そう言って篠原が立ち上がり、休憩室のドアを開けた。その隙間から、訪れた患者の顔が一瞬だけ水野の視界に入った。その映像だけを残して扉は閉ざされた。水野はその後もその患者の顔が目に焼き付いていた。


(今の人って……)


 水野が立ち上がり、ドアをわずかに開けた。そして隙間からもう一度確認した。


(間違いない、嵯峨山さがやまさんだ。嵯峨山さがやま 美菜みな、そっか東京に転校するって言ってたからか)


 その姿を裕太が見つめていた。


「どした? 水野先生」

「あ、いや。昔の知り合いがいたから」

「水野っちって宮崎だったよな? 知り合いなんかいるの?」

「うん、その人小学校6年しょうろくで転校したんだ」


 裕太も隙間からその嵯峨山さがやまと呼ばれる女性を見た。髪の毛は薄く脱色され、ひらひらしていた。白のワンピースに小さなピンクのショルダーバッグをかけていた。カウンター越しに篠原が色々と説明している。


「へえ、結構可愛いじゃん。ひょっとして初恋の相手だったりして」


 水野はどきっと飛び上がった。


「まさか図星かよ、水野っち。これって運命の再開?」

「いやいや、確かに昔好きだったよ。でも小学校の頃の話だし、向こうも覚えてるかどうか……」

「ま、とりあえず行ってみよう」


 そう言って裕太が扉を開けると、水野を背中から押し出した。

 押されるがままに外に出た水野はゆっくりと近づいていった。そして、


「あの……ひょっとして嵯峨山 美菜さんですか?」


 美菜は目を丸くして水野を見た。それから口に手を当て、高い声を出した。


「えー! 水野くん? 久しぶり。お医者さんになったの?」

「そう。こっちで小児科医やってる」

「すごーい! よかった、知り合いがいて」


 その様子を裕太と伊井は陰からのぞいていた。


「伊井、うまくいくと思うか?」

「そりゃそうだろ、女は最初こそ運動できる人とかイケメンとかに流れがちだが途中から気づくんだ。どんなにブサイクでも、医者が一番良いとな。あの水野っちでもイチコロだろ」


 水野は顔を真っ赤にさせながら何とか声を絞り出していた。


「ど、どうしたの? 今日は」


 すると美菜はお腹をさすりながら見せた。


「今、24週なの。ここで妊婦検診受けてるから」


 水野はそれを見て、言葉を失った。


「そ、そっかー。なんかあったら気軽に相談してね」

「うん、ほんっとよかったー、知り合いがいて。連絡先交換しよっか」


 震える手で、水野は連絡先を交換した。

 それを遠くから二人は見ていた。


「あいつ手が早いな、早速連絡先交換してる」

「おう、いい感じ」


 思い返せばこの再会こそが、これから水野を巻き込んでいくその大きなうねりの第一波だったことにまだ誰も知る由もなかった。 

 

第三章:

「救いたくても救えなかった命と看取りたくても看取れない命」へつづく

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