蜘蛛の糸
篠原が、母親の顔を見てから、その肩に手を置いた。
「あんた誰よ、慣れ慣れしく触らないで」
「なーんか、どっかで見たことあんなーって思ってたんよね。忘れたの? あんたリツコでしょ?」
母親は一瞬へ? という顔をした。
そこで、篠原は自分の頬の傷を指さした。
「これみたら思い出すでしょーが。ね!」
「……まさか、ねえさん? こんなところにいたなんて」
状況が理解できぬまま、伊井と和気はただ立ち尽くすしかなかった。その後、篠原がチラッと伊井と和気に目をやった。そして小さくうなずく。ここは任しといて、そう見えるアイコンタクトだった。
「リツコ、まあこっち座んなよ」
そういって篠原がリツコと呼ばれた母親を待合の席に座らせた。
それを見て和気が口を開いた。
「篠原さん、お知り合い?」
「そ。私が昔やんちゃしてたときのマブダチ。家族以上の絆があるから、私たち」
母親の顔は先ほどと打って変わって、緩んでいた。
「姉さんは私が相手のグループにバイクで轢かれそうになったとき守ってくれたんよね、その傷が証」
「これね、友情の証、今でも宝物。ところで、あんた、何怒ってたんだっけ?」
思い出した様に、母親は怒りの表情を作り始めた。
「そうそう、この男が私の大事な娘の体を……」
「このにいちゃん先生?」
篠原の『にいちゃん先生』に伊井は一瞬だけ顔をしかめそうになって、やめた。
「へえ、でもねリツコ。大丈夫よ、この兄ちゃんそんなことする度胸ないから。チ◯コも豆粒なんじゃねーのってくらい。ひゃくぱー無いね」
母親は戸惑っていた。そしてしばらくもじもじしていた。凍りついていた待合のフロアが少しずつ動き始めた。それからしばらくして母親はぼそっと言った。
「ま、まあ姉さんがそういうなら信じるよ。
「この度は驚かせてしまって大変申し訳ありません。診察しましょうか、さ、こちらへ」
そう言いながら、親子を診察室へと案内した。去り際に伊井に向かって一瞥しながら。伊井がどうしていいかわからず、その場に立ち尽くしていると、篠原が静かにすり寄って来た。
「センセ、危ないところだったね」
「え?」
「あの子。あまり良い噂聞かなくてさ。私たちのグループ、そこそこの年齢になったら、みんなそれなりの仕事したり、家庭持ったりって落ち着いて行ったんよ。でもあの子だけはうまく行かなくて……ヤクザと絡んでるって話もあった。どうやらね、他でも同じことやってるっぽいよ」
伊井が、素っ頓狂な顔をして、同じこと? と聞き返すと、篠原が視線を遠くに固定したまま、伊井のお尻をさらっと撫で上げた。伊井がびくっとなった。
「ほら、ちょっと前に電車の痴漢が話題になったじゃない。訴えられたら冤罪でもなかなか無罪にはならないって。それ利用して、『この人に痴漢されましたー!』って言って、示談金ふんだくるやつ。あの子もそんなのに関わってるって感じの噂があった」
「狙ってた……ってこと、ですか?」
篠原はゆっくり首を振った。
「わかんない。計画してたのか、思い付きなのか。どっちにしろ私いなかったらセンセ、完全にやられてたかもね」
伊井の視界に、あのいつもの浅黒い頬と傷跡が見えた。
あのいつも見ていた、自分自身のマネージメントができない象徴と蔑んでいたその傷が、今だけはきらきら輝いて見えた。
「でもあの子も生きるのに必死なんよね。お医者さんも大変だと思うけどさ、みーんな必死で生きてんだよね」
伊井が纏っていた医師というオーラはたった今、完全にひっぺがされ、彼は一人の人間になった。そして目の前にいるのも篠原という数々の修羅場をくぐってきた同じく一人の人間。こうして一対一になってみると、不意に伊井はその篠原という大きな存在に強く、優しく守られているような気がした。
「あ、あの……」
篠原は、え? と言った。
「あ、ありがとうございました」
そう言って、伊井は頭を下げた。篠原は一瞬驚いが表情を見せたが、その後ガハハと笑い声を上げた。
「いいって、センセ。頭上げなよ、今度いっぱい奢ってもらうから、よろ!」
そう言いながら伊井に背を向けると、軽く手を振りながら外来の受付へと消えていった。
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