第一章:一般外来 魔物の棲み家
初日
24年後。
裕太は走っていた。腕時計は、約束の8時30分を過ぎていた。
(まじでやばい、初日から遅刻とかあり得ない)
都立副都心総合病院のカンファレンスルームには小児科医十数名が朝のミーティングのために集合していた。お腹の少しでた、ちょびひげの医師が鼻の下をこすりながら、あたりをキョロキョロした。
「あれ? まだ一人来てないね。まいっか、
その直後、扉がバタン、と勢いよく開いた。
「申し訳ありません! 本日からお世話になる、城光寺裕太でっす!」
地面につきそうなくらいのおじぎがゆっくり上げられると、裕太はやっと場が凍りついていることに気づいた。
へ? という表情をしていると、天然パーマの和気と呼ばれた男が声をかけた。
「あの、君が城光寺君? まだ始まってないから。大丈夫だよ、あっちに並んで」
はい! そういうと、裕太は言われたところに並んだ。
「おはようございます。では朝のカンファレンス始めまーす」
その声を皮切りに、皆カンファレンスルームの前方に注目した。数名の若い医師が立ち並んでいた。
「今日は新しく入った3年目の医師が仕事始めです! みんなそれぞれ自己紹介を」
現行の制度では、医師は医学部を卒業後、初期研修という2年間の研修が始まる。この期間は複数の科を渡り歩くため、2、3ヶ月ペースで所属する科を転々とする。外科2ヶ月、産婦人科2ヶ月、精神科1ヶ月、という具合に。初期研修医はその科で一生働くわけではないため、正直ちょっと覗きにきた、くらいの感覚である。それが終わると後期研修医という名前に変わり、改めて自分の専門とする科での研修が始まる。ここで決めた科が後々変わることは滅多にない。つまりこの卒業後3年目からこそが本当の意味で医師の始まりと捉えることもできる。
小柄な男性医師が、小さく一歩、前に出た。
「水野です、色々とご迷惑をおかけすると思います。至らない点も多々ありますが、何卒ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
パチパチパチパチ……の拍手の中に低く、芯の通った声が響いた。
「あのさ」
一瞬にして静寂が訪れる。声の主は部屋の後ろの方で腕を組む、長身の医師だった。
「迷惑かけない新人なんていねえんだよ、何様のつもりだよ。至らない点があるって分かってんなら、直してから来いよ」
水野は蛇に睨まれた蛙のようにびくん、となってそのまま動けなくなった。え、え、と声にならない音が喉の奥から漏れ出た。
シーンと静まり返った空間を砕くように、和気が明るい声をあげた。
「はーい、という千賀先生からの激励でした。じゃ、次の人〜!」
水野の横に立っていたひょろ長の男が一歩前に出た。その立ち振る舞いは、洗練されていて、自信に満ち溢れていた。目線は斜め上、心なしか部屋にいる皆に緊張が走ったようにも見える。
「九条 隆二です。小児循環器医になります。千賀先生に習いに来ました。専門医を取ったら、成育医療センターへ行くつもりです。それまでよろしくお願いします」
ぱちぱち、ぱち、とまばらな拍手が響いた。失礼なやつだ、それが裕太の最初の印象だった。ここではたくさんの先輩にお世話になるはずなのに、名指しした先生のみにお世話になるような言い方と、やるだけやったらこの病院には用はない、という言い草。印象を悪くするに決まっている。しかし、何故彼がこのような発言ができたのか、裕太はその直後に知ることになった。
「えー、九条君は大学も首席で卒業し、初期研修の聖路加国際病院では
無理矢理和気が笑顔を作ってもどうしても人工的にならざるをえなかった。そこにいた医師たちも、この好戦的な若い高級車相手にどう立ち振る舞うか、様子を伺っているようだった。
「次、伊井先生どうぞ」
伊井が前に出た。目まで伸びた天然パーマの前髪を一度大袈裟にぬぐった。
「伊井 郁夫です、よろしくおねがいします! 名前はイイですが、テンポはヨクナイ郁夫です、大学に入るまでも入ってからも自分探しの旅をしすぎて、人生経験は豊富です。和気先生みたいにはなるなって言われてきました、よろしくお願いします」
会場が一気に笑いで包まれた。司会の和気は、え、と不満そうな表情を浮かべた。
「おいおい、誰だよそんなこと言ったの。君も僕もかなり浪人してるようだし、天パーも一緒なんだから、むしろ仲良くやろうよ」
そう言って、和気は伊井と肩を組んだ。
相変わらずうまいな、裕太は思った。話し方のテンポというか場の空気を読み取る才能があるやつはうらやましい、そんなことを思いながら次の自分の自己紹介文を考えていた。
「次は、城光寺君」
裕太が一歩前に出た。
「城光寺裕太です、本日は遅刻してしまい申し訳ありませんでした」
「ちゃんと目覚ましかけたのかい?」
部長の山田が笑顔を浮かべながら、問いかけた。言い終わった後に、少しだけお腹がたぷんと言った。
「はい、5時半に起きたのですが……二度寝の時に起きられませんでした」
「君は毎日二度寝しているのかね?」
山田の質問には半分ジョークが含まれていたようだ。しかし裕太は表情変えずに答えた。
「はい、そうです」
ははは、と笑いが巻き起こった。
「そうかそうか、今後は気をつけてね」
その直後だった。再び千賀の声がその笑い声を切り裂いた。
「おい、新人。もう初期研修は終わったんだ、そんな理由で遅刻すんなら、もう二度と来なくていい、帰れ」
太い声だった。相変わらず腕を組んだまま、四角い顔に鋭い眼光で裕太を睨んでいた。裕太はどうしていいかわからなかった。周りの医師も同じ気持ちなんだろうか、自分はこの場にいてはいけないんだろうか、そんなことを考え始めた時、どこからか声が聞こえた。
「どうして小児科医になろうと思ったんですか?」
裕太がその声の方を見ると、そこに一つの笑顔を見つけた。決して目立つ顔ではなく、強い存在感があるわけでもなかった。しかしその笑顔は力強く、揺るぎない何かを裕太は感じていた。
「え、と……それは……」
裕太はどきり、とした。心臓がばくばくと音を立てるのを感じた。視界がぐるぐると回り始めようとしていた。記憶の奥に押し込めていた何か、その怪物の瞳がチラッと裕太を見た気がした。
「あの……すみません、ちょっとわかりません」
会場が再び笑いに包まれた。中には呆れたような表情も混じっていた。部長の山田が腹を一つ叩く。
「君面白いね、何で小児科に入ったのかわからないの? でもね、これはちゃんと言えないといけないよ。他の先生もこの質問だけはしっかり答えられるように。今後何度も聞かれる質問だからね」
頭が真っ白になった裕太はその後何があったか全く覚えていない。せっかく空気を変えようと優しい質問をしてくれたのに、それを答えられないなんて。悔しさと不甲斐なさで押し潰されそうになった。
この会話こそが、桐生 智、後に裕太の運命を大きく変えることになる医師との初めての会話だった。
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