九条と千賀
「いや、裕ちゃん、早速やってくれるね」
一通りのオリエンテーションが終わって、新人医師たちは医局で休憩をとっていた。伊井は裕太と大学の同級生で知り合いだった。
「何が?」
「授業中もよく寝てたもんな、自己紹介のつかみもばっちりだったね」
「別に。狙ったわけじゃねえし」
調子のいい、空気を読まずに踏み込んでくる伊井を裕太はあまり好きではなかった。そんな裕太にお構いなく伊井は光る黒メガネを寄せてきた。
「あの九条君とまさか同じ病院で働くことになるとはね」
「知り合い?」
「裕ちゃん知らないの? あの九条君を。日本一の
ふーん、と裕太は遠くに九条の横顔をちらっと見た。
「あんな人とお近づきになれるなんてこんなチャンス滅多にないぜ、間違いなく偉い人になるからな」
「あのぅ……」
後ろからか細い声が響いた。伊井は蚊が飛んできたのかと思い思わず自分の耳を思い切り叩いた。
「うわ、びっくりした。きみ、水野先生だっけ? いつからそこに?」
水野はちょこんと、まるで座敷童のようにそこに佇んでいた。
「ぼく、こっちきて友達とかいないから、もしよかったらLINE交換してくれないかな」
裕太はポケットのスマホを取り出しながら答えた。
「おお、いいよいいよ。これからお世話になるから色々よろしくね」
そう言いながら、3人は連絡先を交換した。
「ところで水野っち、出身どこ?」
出会っていきなり、っちはねえだろう、裕太はそう思いながらも水野は気にしている様子はなかった。
「宮崎。関東に来たのは修学旅行くらいかな、寮の周りはまだ怖くて歩けないよ」
そう言いながら水野は頭をぽりぽり掻いた。ふと裕太は医局の隅で、自分の机に座る九条を見た。
(九条先生も同じ仲間なんだから挨拶はしないとな)
裕太が立ち上がって、九条に声をかけた。
「九条先生、もしよかったらLINE交換……」
最後まで言い切る前に九条は立ち上がった。
「あの悪いけど俺、君たちと仲良くするつもりはないし、お世話になることもないだろうから。なんか用があったら
そう言い捨てると、医局を出て行った。胸を殴られたような衝撃を受けた裕太はそのまま立ち尽くしていた。その横に伊井が肩を並べた。
「九条君からしたら俺ら、虫けらみたいなもんだからな。ま、しょーがないよ」
そう言って、誇らしげにうんうん、とうなずいた。
「あのぅ……それにしてもぼく驚きの連続だよ。あの千賀先生に、あの九条先生でしょ。こんなすごい人と同じ病院で働くことになるなんて」
「水野先生、千賀先生の事知ってるの?」
水野は記憶の奥にしまいこんだものをおごそかに引き出すような表情を浮かべた。
「うん、宮崎で初期研修してた時、全国学会に連れて行ってもらったことがあるんだ。その時、すごい剣幕で質問……というより詰問する人がいて、発表してた女医の先輩がそのまま泣き出しちゃって。あれ誰ですか、って聞いたら、『泣く子も黙る千賀だ』って聞いた。もうあれからもう千賀先生のことは忘れられないよ」
伊井はチリチリのパンチパーマの髪を揺らしながらクールな表情を浮かべた。
「あの人が偉い人に質問する時も、明らかにみんな一目置かれている様子がよく分かる。間違いなくいずれ小児循環器学会の理事長になる人だと言われているんだ」
裕太はふーん、とつまらなそうな息を吐いた。
「それと、日本一のデキレジ、九条先生か。なんでそんなすごい二人がこんな病院に? 有名な病院なら他にももっとたくさんあるのに」
伊井は待ってましたとばかりにあたりをキョロキョロと伺ってから、裕太と水野二人の顔を無理矢理自分に近づけた。
「そこなんだよ、大事なのは」
伊井の髪の毛の一本が裕太の目に入ったが、伊井はそのことに気づいていない。
「あの千賀先生、噂ではここで何かやり残したことがあるらしい。それを達成するまでは出られないとのことだ。それが何なのか、誰も知らないんだ。それと……」
伊井が頬をくっつけるくらい顔を寄せた。
「九条君がここに来たのは間違いなく千賀先生目当て。日本一の小児循環器医を倒しに来たって言われてる。この二人の対決、見ものだと思わねーか? 天才ルーキーが勝つか、ベテランがその力を見せつけるか」
伊井はまるで実況中継のようなセリフを吐いた。そのまま自分の世界に入って行った。
「なんだ、そんなことかよ」
裕太はソファにもたれかかった。
「そんなってなんだよ」
「正直俺はそんな対決興味も無いし、小児循環器も特に興味ない。小児循環器って赤ちゃんの心臓の病気だろ? 生まれつき穴が空いてたり、血管が狭かったりくらいしか知らないけど。好きな人に任せときゃいいんじゃね。それより何より俺は人としてどうかと思う」
「人として?」
水野の消え入りそうな声に、裕太は頷いた。
「初めての相手に困らせるようなこと怒鳴ったり、失礼なこと言ったり。どんなに腕が良かったって、俺はそんな医者絶対認めないけどね」
裕太はふと先ほど最後に質問した、桐生の顔が浮かんできた。
あの緊迫した空気で発言するのは勇気の要ることだったはず。それを乗り越えて声を出したあの医師はどんな人なんだろうか、それが少し気になっていた。
ふぁーあ、と伸びをしながら、伊井が黒メガネを拭いた。
「まあいいや、とりあえずみんなヨロシクね」
扉がガチャリと開いた。立っていたのはパンチパーマの和気だった。
「新人君たち、肘内障の子いたよ、珍しいから見においで」
はい、はい! と声をあげ3人は立ち上がったが、和気は裕太を見て、
「あ……あんまり多いと患者さん困っちゃうから、君は待ってて、ごめんね」
と告げた。
和気先生! と敬礼でもしそうな勢いで伊井が声を上げた
「九条先生も呼びましょうか」
そう言ってPHSのボタンを押そうとしたとき、
「いや、彼にはさっき会って声かけたよ。そうしたら、もう何度も整復(治すこと)したことあるからいいですって」
肘内障とは簡単に言えば肘の脱臼だ。お母さんが繋いでいた手を引っ張りすぎてしまった時などに時々起こる。子どもが手を痛がり、自分の肩以上にあげられなくなったときはこれを疑う。年に一度あるかないかの頻度だが、簡単に治せて、すごく喜ばれる、いわゆる出来たらちょっとカッコいい治療だ。だからこそ成りたての小児科がこぞって経験したがる疾患だった。
もちろん裕太もせめて見るだけでもと思ったが、どうやら自分だけが除け者にされてしまったようだ。やはり今朝の二度寝と寝坊から、こいつはだらしないやつだという印象がついてしまったのだろうか。またこの環境でも自分の眠りの問題については理解されず、レベルの低いやつというレッテルを貼られていくのだろうか、そんなことを考えると思うと裕太はげんなりした。
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