ジェシカはアクアブルー

水綺はく

第1話

「真守、お願い。早く来て。私、今にも死んじゃいそう!」

 午前0時、ジェシカから来た電話に俺はすぐに返事して服を着替える。

肌寒くなってきた十一月。薄手のジャケットを羽織って家を飛び出すと冷たい風が吹いて身震いした。

もう少し厚手のジャケットにすれば良かったなぁ。

隣家を通り過ぎると住宅地のコンクリート道を真っ直ぐ歩く。

そのまま家から徒歩五分の小さな公園に向かった。真っ暗な夜の公園に人影が映る。近づくとブランコに乗ったミニスカートにロングブーツの髪の長い女の姿が目に入った。両足を地面につけたまま哀しげにブランコを揺らしている。その度に彼女のウェーブ掛かったブロンドヘアが揺れていた。

嗚呼、またいつものことだ。

「ジェシカ!」

側に寄って名前を呼んだ。

ジェシカがゆっくりと顔を上げる。

彼女のアクアブルーの瞳は涙で潤っていた。それから白目が充血していて瞼が腫れていた。

「真守、聞いて!」

ジェシカが俺の手を握って泣きじゃくる。子供みたいに顔をくしゃくしゃにしてボロボロと泣く。高くて綺麗な鼻を真っ赤にして鼻水を流しながらわんわんと泣く。

その姿は二十歳の大学生とは到底考えられない。まるで小さな子供だ。俺と一歳しか違わないのに。

ジェシカは俺のジャケットを両手で掴むと当たり前のように顔を埋めた。俺のジャケットは俺の意見なんて無視するようにジェシカを受け入れる。

ジェシカが顔を埋めた部分のジャケットが濡れて色が濃くなっていくのがわかった。

俺はその姿を上から眺めるとため息を一つ吐いた。それからジェシカの髪に触れる。フワフワのブロンドヘア。キラキラしている。そのまま彼女の髪を撫でて泣き止むのを待つ。

嗚呼、まただ。

ジェシカは男に振られたり騙されたりするたびに泣きながらこの公園に俺を呼び出す。

これが何回目なのか覚えていないくらい繰り返している。

すぐに人を信用するから騙されるんだ。

ジェシカに近寄る男はみんな、ジェシカを利用する奴ばかり。お金がない男、女遊びが激しい男、酒と麻薬に手を出してる男、女に手が出る男…今までジェシカがどれだけ騙されてきたか。

俺が、騙されているんだよって言ってもジェシカは、分かってるって言いながらいつも別れない。

もうお手上げだよ。ジェシカなんて…

肩を揺らして泣いているジェシカの髪に指を絡めた。細くて柔らかな毛が俺の指に絡みつく。

フッと小さくて虚しい息が漏れる。

俺は馬鹿だから見切りをつけるなんて出来やしない。

ずっと好きな女の子がひとりぼっちで泣きながら俺を呼んでいるのに無視なんて出来るはずがない。

馬鹿でもいい。大馬鹿でいいから、これからも悲しい時は俺を呼んでくれ、ジェシカ。


「Hi, 初めまして!ジェシカでーす!」

 ジェシカと初めて出会ったのは俺が十一歳の時だった。

生まれた時から住んでいるマイホームの隣家に新しい隣人が挨拶に来た。それがジェシカだった。

ジェシカは俺の一個下だ。生まれ持った黄金のように輝くウェーブヘアに真っ白な肌を見て最初はフランス人形が動いているのかと思った。

「今日はママが作ったマフィンを持ってきたの!バナナマフィンとオレオチョコレートマフィン!どっちもすごく美味しいよ!」

マフィンの入った白い箱は金リボンでラッピングされていた。ジェシカの髪はそのリボンよりも美しかった。

「ジェシカちゃん、よろしくね。この子は真守って言うの。仲良くしてね。」

俺の横に立つ母が無理矢理、お辞儀させるように俺の頭を押し込んだ。

母親の手でお辞儀させられた俺が上目遣いに彼女を見ると目と目が合った。

うわぁ…海みたいだ。

ジェシカの瞳は俺が理想としている海の色をしていて毎年、家族で行く海水浴場の海とは比べ物にならないほど綺麗だった。

彼女が俺に微笑みかけると天使の輪が見えた。

「一人で挨拶なんて偉いね。」

俺たち親子の前に一人で立つジェシカを見て母が褒める。

「パパもママも忙しいから行ってきてって言われちゃった。とろばたらきなの!」

「とろばたらき…?嗚呼、共働きね!」

「そう、それ!パパは仕事で海外にいるしママは塾の先生で大忙しなの!」

「そっかあ、じゃあ一人で寂しいね…この子も一人っ子で寂しがりやだから仲良く出来るかもしれないわね!」

ジェシカのアクアブルーの瞳が俺を映す。

「仲良くしてね!真守くん!」

彼女の笑顔を見ていると曇り空から太陽が出た時のように眩しかった。



「真守、聞いて!私ね、彼氏が出来たの!」

 俺が中学二年生の時だった。

突然のジェシカの告白を昼下がりのファーストフード店で聞いた俺はチーズバーガーを手に持ったまま硬直した。

「同じクラスの山下くん!私のことが好きなんだって。だから私も好きって言ったの!」

左手にポテト、右手にコーラを持ったジェシカが無邪気に笑う。

「…その人のこと好きなの?」

ジェシカに尋ねるとジェシカは首を傾げて、「うーん…ドキドキはしないけれど面白いから一緒にいると沢山笑えるよ!」とまた無垢な笑顔を見せる。

動揺した俺はハンバーガーを食べる気が一気に失せてすぐにでも家に帰ってベッドにダイブしたい気分になった。

「真守はどう思う?」

ジェシカが何かを窺うように俺を見る。

「…何が?」

俺は平静を保つのに必死だった。

「好きな子とか、いないの?」

ジェシカが俺を見る。

アクアブルーの瞳が試すように俺を見ていた。

ジェシカが好きだ!

心中ではいくらでも叫んでいる。…ジェシカがいない時に。

だけど頭に浮かべているジェシカと違って本物のジェシカは俺の妄想通りには動いてくれないから俺は自分が傷つくこと、プライドが傷つけられることに怯えて本当の気持ちを言えないでいた。

その日だって俺は結局、言えなかったんだ。

誰よりも好きだ。俺はずっとジェシカを好きでいる自信があるって。

「…好きな子?……ああ、いるいる。隣のクラスの旭さん!好きだけど中々勇気がなくてさ!」

こうやって俺は本当の自分の気持ちから逃げたんだ。

「…そうなんだ。上手くいくといいね。」

俺の言葉を聞いたジェシカは諦めるように微笑むと俺から視線を外した。

俺の姿を映していたアクアブルーの瞳は卓上のフライドポテトに切り替わる。その日はそれから彼女の瞳が俺を映すことはなかった。

その後、ジェシカはその告白してきた男と三ヶ月で別れた。それからすぐに他クラスの男と付き合いだして、そいつとは一か月で別れた。

ジェシカが三人目の彼氏が出来た頃、俺も失恋の傷を癒すように彼女をつくった。その子と半年間、付き合って別れるまでにジェシカはさらに二回、付き合っては別れてを繰り返した。

それから段々、ジェシカの男運が悪くなっていき付き合う男がことごとく難ありな男になった。

男に傷つけられるたびにジェシカは夜に俺を電話で呼び出した。そしていつもこの公園で泣いている。俺はジェシカの泣き声を聞くたびに彼女の元へ行って慰めながら彼女の髪を優しく撫でている。

それなのに肝心の言葉はいつも言えないでいる。

俺にしなよ。俺だったら絶対にジェシカを傷つけない。十年も愛しているんだ。そう簡単に心変わりしないよ。

そう言いたい。そう伝えたいのに不安が過ぎる。

もしも断られたら?

ジェシカも俺に気があるなんてただの勘違いだったら?

もう二度と元には戻れなくなる。

今みたいに悲しい時にジェシカから電話が来なくなる。一緒に遊んで笑い合うことも出来なくなってしまう。

 男はすぐに勘違いするんだから。

幼い頃に母がテレビに向かって漏らした独り言を思い出すたびにジェシカへの気持ちは喉の奥へと隠れてしまっていた。

「泣き止んだ?」

 優しく尋ねるとジェシカが静かに頷いて俺のジャケットから手を離した。

ジェシカの涙が止まった代わりに俺のジャケットは一部だけ雨で濡れたようになっていた。

「ジェシカ…」

俺がジェシカの前に腰を下ろすと俺を見る彼女の視線が上から下へと落ちる。

何から話そうか。

思ったことを口に出せば良いだけなのか。ずっと想っていたことを。

自分が傷つくのは恐いけれど、これ以上ジェシカが他の男に傷つけられている姿を見るのがもう辛い。

好きな人が傷つく姿ほど胸を痛めつけられるものはない。

それなのに俺は彼女が傷つけられるたびに言わなければならない言葉を何一つ言えずにここまで来てしまった。

駄目なんだ。これ以上、彼女のアクアブルーの瞳が悲しみで溢れるのを見たくないんだ。

馬鹿でもいい、馬鹿であれ!

あれこれ考えずに、よく考えて伝えなければならない言葉を彼女に伝えないと。

俺は立ち上がるとブランコに座って揺れるジェシカの隣のブランコに腰を下ろした。

それからジェシカの瞳を見つめて訴えかけるように言った。

「ジェシカ、五分だけ俺の話を聞いてほしい。昔話をしよう。…それから今の話もしよう。」

ジェシカは涙が枯れて充血した目で俺を見ると弱々しく頷いた。

「いいよ。真守はいつも五分以上、私の話を聞いてくれるもん。」

俺は小さく笑った。

それから昔のことを思い出した。

ジェシカと出会って初めて迎えた夏休みの出来事。

かき氷屋で買った発泡どんぶりに入ったかき氷を手に持つ俺とジェシカの姿を。

「ジェシカはね、レモン味が好きなの!だってジェシカの髪と同じ色だから!」

レモンイエローのかき氷をストローの先端がカットされた赤いストライプのスプーンですくってジェシカが俺に笑いかける。

「真守はブルーハワイ?青が好きなんだね!」

無邪気なジェシカの天使な笑顔。

「海が好きなんだ!だから本当は空色じゃなくて海色が良かったな…。まあ、でもいいや!一番好きな色はいつも近くにあるから!」

俺の言葉にジェシカが首を傾げる。

「どこにあるの?私も真守の一番好きな色知りたい!」

ジェシカがぴょんぴょん跳ねながらせがむように俺の目を見る。

彼女のアクアブルーの瞳はその間ずっと俺を映していた。

彼女の瞳の中に映る姿がずっと俺だったらいいのに。

ガラス玉のように白い光が入った彼女の瞳。

まだ幼かったあの頃から俺はずっとそんなことを考えていた。

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