蘇り


 智は未だ混乱したように古人を見上げると、「お前、今人殺したら犯罪だろ!」と獅子のように抗う。しかし、古人はその言葉に手を止めると嘲笑した。

「犯罪? 犯罪だからダメなのか? 犯罪じゃないから昔のあれは良かったと?」

 言い返されるとは思っていなかったのだろう。智は驚いたように固まって古人を見上げた。

 かつての古人はこんな風に反抗することはなかった。ただ大兄として育てられ、道に沿って歩いてきた。それゆえ葛城が比較的自由に動き回れたとも言える。古人が従順に大王や群臣の意向に従っていたからこそ、中大兄の葛城は蹴鞠をしようが学問塾に行こうが多少のことは見逃された。

 古人はそれが悔しかった。古人とて、自由奔放に生きている葛城が羨ましかった。それゆえ彼は入鹿に惹かれたのだろう。同じく家と父に囲まれていた入鹿に。


 古人は再び翔太へ向き直ると「ねえ」と声をかける。そこに見えた憎しみの中に、どこかうら寂しい響きが混じっていた気がした。

「お願いだからさ、一緒に復讐してよ。一人じゃ怖いんだ」

 翔太の頬に伸ばされた手はほんの少しだけ冷たかった。風に晒された花の露のような、ほんのひと握りの勇気だった。

 かつて古人が死んだばかりの頃、黄泉へ行けずにいた入鹿の元へ彷徨っていた古人がやってきたことがある。その時も復讐しようと持ちかけられたが、やはり入鹿は断った。当時の古人はそのまま奮い立っていたものだ。

 しかし、今回の古人はどこか怒りが沈んでいるようだった。確かにあれから千年以上も時が経った。きっとその間に心が萎んでしまったのだろう。ここまで来て引き返すことも出来ぬまま、前世の記憶と憎しみに囚われたまま、葛城を見つけた彼は再び復讐を考えた。しかし元々己の意思で動くことに欠けていた男だ。今更一人で立ち向かうなどよっぽどの勇気が必要だったのだろう。

 突然目の前に現れた入鹿を見て、縋る他ないと思ったに違いない。かねてより自分を支えてくれた彼に、共感して欲しかった。

 翔太は目を泳がせて古人を見ていた。ひどく戸惑っているようだった。古人は入鹿のことを仲間だと思っているようだが、その実入鹿はあの政変をはなから認めていたこちら側の人間なのである。古人が気づいていないので、罪の意識がまとわりついて視界が揺らぐようだった。翔太は一度古人の目を覗き込んだ後、一の方へ瞳を向けた。そこに見えた迷いの色は、今にも降り出しそうな曇天に似ていた。その視線にドキリとする一の目の前で翔太は小さく俯く。そして震えるような声でもって、「ごめんなさい」と呟いた。

「復讐は出来ません。智たちを恨んでもいません。確かに良い気持ちはしませんでしたが、それでも······。私は大兄皇子さまをお慕いし、お支えしてきたつもりでございます。しかし、だからといってあのままで良いとは思っておりませんでした。中大兄皇子さまのやり方が全てだとは思いませんが、あれはあれで良かったのではないかと思っております。恨むならば私を恨んでください。貴方様がいるにも関わらず、それを考えずに勝手に死んだ私が悪いのです。中臣を捨てた鎌足のように、蘇我から抜け出す勇気を持てなかった私が弱かっただけですから」

 古人は心が抜け落ちたかのような顔でただ佇んだ。翔太の頬から指が離れ、力なく落とされる。

「······それでいいの?」

 古人は再度問いかけた。翔太は瞳を揺らしたが、首を横に振ることは無かった。

 古人は何も言わずに視線を落とした。やっと、かつての古人にも似た、古野吉人ふるのよしひとの顔に戻ったような気がした。

 吉人は自嘲するかのように口の端を上げると、「そう。やっぱりお前はお祖父さんに似てるみたい」と諦めたように眉を下げる。そして一度だけ振り返ると、智と一に向かって「それでも僕は許さないから」と呟き、体育館を出ていった。

 残された静寂だけが耳を劈く。智がやっと震える息を吐いた。虚ろな瞳が一を捉え、「鎌足か」と言葉が漏れる。あまりにも懐かしいその響きに、一は諦めたように苦笑した。

 思い出してしまった。智が。

 小学校の時からずっと危惧していた事態。智は痛むように頭を手で支えると、珍しく項垂れて口を閉ざした。ふとした時に重なる景色がやっと線で繋がってきたのだろう。その経験は痛いほどに分かるからこそ、一はそのうち慣れると言いたげに智の背中をさすってやった。

「······」

 それを合図にしたかのように、智はそっと顔を上げた。翔太は心配そうに吉人が消えた方向を眺めていたが、視線に気づいて顔を戻す。ぶつかった智の瞳には懐かしく紅い光が宿っていた。翔太はほんの少し口をゆるめると、「申し訳ありませんでした」とやけによそよそしい言葉遣いをもって応える。

「そばにいられるのがお嫌ならそれでいいです。落ち着くまでは離れておりますから」

 そう笑って用具室を出ていった。智は「あ、おい!」と慌てたように立ち上がりかけるが翔太が振り返ることは無い。

 ひぐらしの鳴き始めた宵の中で、伸ばした智の左手だけが宙に取り残されていた。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る