怨恨


「覚えてるよな、葛城かつらぎ

 吉人の言葉に智の目が見開かれた。首を絞める手が強められると共に、「ふる······ひと······」と葛城の唇が言葉を描く。思考を止めようとした一の叫びも虚しく虚空に露と消えた。

「やっと思い出してくれた?」

 吉人が心底楽しそうに首を傾げる。吉人は······いや、古人は確実に恨みを目に宿すと「お前のために尽くしたのに」と瞳孔を開く。

「お前が入鹿を殺した時は驚いた。僕たちの何が悪い。入鹿を殺したのは僕を皇位から遠ざけるため? それはお前の意志だったの? お前が大王になったも同然だと思って出家までしたんだ。なのにお前は殺した。俺も息子も全部だ。酷いとは思わないか? 俺は全て捨てた。皇位も日常も皇子である己も全部だ。なのにお前は······」

 古人の手に筋が滲む。同時に智の顔が白んでいった。一は弾かれたように古人の手を掴むと智から引き剥がそうとする。しかしまるで人とは思えないほどの力が腕に込められていた。古人が一の手を振り払えば一瞬にして後ろへ飛ばされた。壁に打ち付けた背中が痛むがそんなの気にもならなかった。

 確かに、葛城と鎌足はこの古人を滅ぼした。古人は葛城の異母兄であり、当時 大兄おおえと呼ばれていた皇子。加えて入鹿の後ろ盾があったので、葛城即位の邪魔になることは確実だった。

 入鹿を失った古人は俗世を捨てた。葛城に狙われるのは必須だと思ったのだろう。出家して大人しく暮らすと都を離れていったが、危険分子であることには変わりない。結局その後、謀反を企んでいるとの噂が流れたので誅殺した。その噂の出処など言うまでもあるまい。ただ、そうするべきだと思ったのだ。葛城を守るためには。

「昔のことだろ。いいから智を離せ。そいつは葛城皇子じゃない」

「葛城だろ。今俺を見てるこいつは葛城だ。さっき立ち向かってきた目を見て分かった。こいつは何も変わってない」

 一の言葉を受け、古人は吠えるように言った。そこに混じる響きはまさに怨み憎しみ。もう優しげな兄の面影などどこかへ消え去り、ただただ魍魎もうりょうのように眉をつり上げる鬼の笑みだけが智と一を捉えて離さなかった。

 古人は唇に弧を描いたまま、地の底から這い出すかのような声で言い放つ。

「昔のことだとか言って水に流せると思うなよ。ずっと探してたんだこいつを。こいつの一番息子がむなしく死んだと知った時はざまぁみろと思った。俺は何も悪くない。俺の息子だって入鹿だって悪くない。なのに悪者に仕立て上げたのはどこのどいつだ。なぁ鎌足」

 古人はこちらの声など聞く気がないようだった。ただ智と一の奥に重なる二人に憤怒し、泥沼のような怨恨を辺りに流す。憎い、憎いという感情が、これほど身体にまとわりつくものだとは知らなかった。その凄みに動けずにいる一を見つめ、彼は愉快そうに笑う。

「だから今度こそお前らをっ······」

 その時、ふと古人の声が潰えた。見開かれた彼の目は一の背後を捉えていた。突如訪れた静寂に振り返れば、扉に手を添えたまま立ち尽くしている翔太がいる。視界を遮っていた一の背中が遠のいた時に、やっとこちらの状況を知ったのだろう。未だ焦点の合わない瞳を古人に向けると、「ふる、ひとさま?」と掠れたような声を漏らした。

「······」

 古人も驚いたようだった。しばしの間翔太の顔を見つめると、「入鹿か?」と目を丸くする。緩められた指が智から離れ翔太の方へと伸ばされた。智は呻くように咳き込むと力なくその場に崩れ落ちる。慌てて駆け寄る一の横で、古人はゆらゆらと覚束ぬ足取りで翔太へと近づく。やがて伸ばされた指が頬を捉え、そっと翔太の顔が覗き込まれた、

「ああ、入鹿だ」

 古人は唇に弧を描くと、安堵したように眉尻を下げた。そのまま翔太の柔らかな髪を指で絡め取り、「ねえ入鹿」と睫毛を伏せる。

「今度こそ復讐しよう?」

 翔太の目が開かれる。

「前は嫌だと言っていたね。なんで? 君は殺されたんだ、こいつらに。君は間違ってなかった。こいつらがした政にはお前が考えていたものが沢山混じっているじゃないか。あの鎌足に知恵を盗まれたんだろう? そうだろう。一緒に復讐しようよ。蝦夷だってそれを望んでる。君にはあいつらを裁く権利がある。僕も一緒に手伝うから、あいつらを殺そう? 今度こそ、僕たち二人で生き残るべきだよ」

 翔太の声が奪われる。咳き込んでいた智も古人を見上げると、ギリッと怯えたように歯を鳴らした。











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