向日葵


 翌朝、上宮うえみやが生徒会室の扉を開けると窓際に華奢な背中があった。あおいのようである。彼は柔く差し込む朝日の中でなにか無心に手を動かしていた。驚かさぬよう室内に入れば、それが花瓶に活けられた花であることが分かった。

「それ、小野くんが活けてたのですか」

 突然聞こえた声に葵がビクリと振り返る。しかし相手が上宮だと知ると、彼は興味を失ったように冷めた目で前へ向き直った。

「勝手に花を持ってきたのは謝りますよ、先生」

「いえいえ怒りなどしませんよ。むしろ感心したのです。誰が持ってきたものだろうかと不思議に思っていました」

 生徒会室の隅におかれた花瓶には、いつも鮮やかな花が咲いていた。まるで空の日はなく、季節に合わせて毎日違う花が活けられていた。

 そのセンスはまさに才能だ。花の一本一本が、葉の一つ一つが、色・大きさ・形全てにおいて統率の取れた配置がなされている。印象の強弱はあるものの、どれかひとつを取ればバランスが崩れてしまうような······そんな、互いを補い合う個々の花が、上宮にとって心に刺さるのだ。

 葵は褒められて眉をあげると、特に嬉しそうにもせず「ふーん」と言いたげに上宮を見上げている。そして「花は好きですから」とだけ答えて足元の鞄を拾った。

「一度お暇しますね、お邪魔しました」

 さっさと古い花をまとめて扉に向かった葵だったが、突然目の前に現れた影にピタッと足を止める。出入口で鉢合わせた男を見上げれば、ニヤリとした笑みの秦也が立っていた。

「わぁ奇遇だね。君に話したいことあったんだ、タイミング良い〜」

 ケラケラとした声を聞き、葵から表情が消える。彼はどけと言わんばかりに秦也を押し返すとそのまま生徒会室を出ていった。

「日直の仕事があるので、また後で」

 相変わらずの塩対応にニヤリと笑うと、秦也は「後で話すからねー」と声を張る。それを横目に、上宮は「なるほど」と目を細める。

「何だか気になると思ったら、妹子いもこでしたか」

「なんだ、気づいていなかったのですか?」

 秦也······いや、秦河勝はたのかわかつも目の奥を光らせて振り返る。そこには河上秦也の面影など無くなっていた。

「何にも興味を持てなかったあの子が唯一持ち帰ってきたのが花でしたからね。仏から程遠いと思っていた妹子が出家するとは夢にも思いませんでしたよ」

「出家? まさか、あれほど神仏を信じなかった妹子さんですよ?」

「それが出家したのですよ。理由は簡単、人間が嫌いだからです」

 ピンと人差し指を立てた河勝が笑う。それを聞いてやっと腑に落ちたのか、上宮こと厩戸うまやとは呆れたように眉を下げた。

「驚きましたね。しかし私も常々思っていたのです。きっと彼は誰よりも人間に程遠いのだと。初めて彼の心を知った時は驚きました。健気な方だと信じておりましたから」

「そこが妹子の恐ろしいところですよ。誰よりも猫かぶりが上手いんです。例え貴方さまでも騙されるくらいに」

 小野妹子おののいもこ。誰もが一度は聞くであろうその男こそ、葵のかつての姿だった。厩戸の側近として隋へ渡り、見事国交を成立させた敏腕。厩戸の死後は朝廷を離れて出家し、御仏に花を供え続けたことから華道の祖とも呼ばれている。

 彼は冷たく美しい男だった。健気な仮面と底知れぬ本性。それを巧みに使い分けて隋の高官たちや厩戸までもを魅了した。彼を飛鳥へ連れてきたのは河勝であり、二人はやはり同族嫌悪のような間柄であった。厩戸はそれを知っているからこそ、葵を見て確信したのだ。河勝に口答え出来るなど妹子以外にはありえないと。

「全く面白いですな。この生徒会はきっとこれから持ち直しましょうぞ。僕が時代を変えると見込んだ者ばかり溢れている。もちろん皇子さまも然り」

 ニヤリと笑った河勝の瞳に言い様のないうねりが見える。それを愉悦と呼ぶのだと、厩戸は既に心得ていた。

物部もののべ蘇我そががぶつかった丁未ていびの戦の後、前を見据えていたのは小野妹子と鞍作鳥くらつくりのとりのみ。その後皇子さまと蘇我の大臣おおおみ額田部皇女ぬかたべのひめみこさまが協力して安定した世を作りましたが、それも御三方が続けざまに亡くなられてから総崩れだ。その混沌をまとめ直したのが葛城皇子かつらぎのみこ中臣鎌足なかとみのかまたり、起点になったのが蘇我入鹿そがのいるかと言った所でしょうかね」

 ペラペラと紡がれた懐かしい響きに厩戸はそっと目を閉じた。厩戸にはその言葉の前半しか分からない。丁未の乱の後、厩戸は大臣こと蘇我馬子そがのうまこと手を取り合い、後に推古と言われた額田部皇女を支えてきた。

 馬子は常々言っていた。厩戸が大王おおきみになるまで長生きしたいのだと。しかしそれは叶わなかった。馬子が死んだ訳では無い、先に厩戸が旅立ってしまったのだ。あの後馬子がどうなったのかなど資料を見る程度でしか分からない。しかし今思い返すと、寂しいことをしてしまったと思う。

 それゆえ河勝の言葉が心に染みるのだ。あの後、自分が病に倒れたあと、きっと苦しい思いをした者がいる。厩戸が成し遂げられなかったことがあるからこそ、その皺寄せは次世代へと流れていく。そんな気持ちをゆっくり咀嚼すると、厩戸は「おかしなものですね」と深い息を吐いた。

「河勝、貴方なら分かりますか? 何故こんなにも見知った顔が集まるのか」

 河勝は少し微笑んだようだった。しかし、「いいえ、私とて全知全能の神ではありませぬ」と首を振る。

 厩戸は、棚に飾られていた鳥の彫刻に指を滑らせる。美大を目指す夏希なつきが彫ったものだった。どこか飛鳥大仏の布の弛みのような、そして法隆寺の釈迦三尊像の頬の丸みのような、そんな柔らかな曲線を目で撫でる。あの仏を生み出した仏師・鞍作鳥の真剣な表情と、海の向こうを見据える妹子の瞳がどうも重なって揺らめいた。

 前を見据えていた、あの二人だけが。あの戦で皆が何かを失った。そこへ連れられてきたのが妹子であり、希望となる大仏を任されたのが鳥であった。彼らが今ここにいる葵と夏希なのだろう。薄々感じていた既視感を確信へ変えると、厩戸は、上宮は、フッと肩を緩める。

「河上くんはどうするのですか? 貴方にとっては最後の学園祭であり、最後のひと仕事でしょう。任せられますか? 全てを次の世代に」

 秦也はそれにニコリと笑った。答えは「さあ?」の一声だった。

「僕は何も言いませんよ。決めるのはあの子たちです。その時その時のやり方が、その人その人のやり方がある。ただ、あの子たちならきちんと決められる。そう信じてるだけです」

 秦也の言葉はどうも常々胡散臭い。しかしこの時ばかりはそうなのだろうかと思ってしまった。

 ふと階段を駆け上ってくる足音が耳に入る。その軽快な響きはさとしだろうか。動き始めた学園祭の気配に、上宮は夏が来たかと窓際の花瓶の向日葵を見つめた。














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