その日、始業時間になっても担任の酒井さかいが現れなかった。皆が首を傾げた矢先、気だるげな声とはとても似つかない、朧月のような響きが教室のドアを開けた。

「おはようございます」

 英語担当の阿部が入ってきたので皆が目を丸くした。一時間目は数学のはずだ。後ろにある時間割表を確認すると、やはり「数学」と書いてある。

「せんせー、さけちゃんは?」

 さとしが好奇心丸出しの声を上げる。酒ちゃんとは担任の酒井のことだ。名字と酒好きな性格から智が勝手にそう呼び始めた。

 阿部は「酒ちゃん?」と一瞬首を傾げたものの、すぐに酒井のことだと分かったらしい。「ああ! 酒井先生のことですね!」と紺色のロングスカートを揺らして首をすぼめる。

「それがその······詳しいことは言えないんですけど、今日はお休みで······」

 曖昧な物言いに眉を寄せる。詳しく言えないとはどういうことなのか。皆の疑問が伝わったのか、阿部は「あ」と気まずそうに頬を染めた。今更失言に気がついたらしい。

「すみません、気になりますよね。ちょっと急用が入ったんです。多分そのうち帰ってきますので」

 そう苦笑いで誤魔化すと、名簿を開いて出席をとる。酒井と同じく一人一人の名は呼ばなかったが、「体調悪い方いますか?」と柔らかな言葉を付け足した。

「いないですかね。今日は保健の柳元やなぎもと先生が出張なので、この場で言いにくかったり途中で体調を崩したりしたら、お友達や私に声をかけてくださいね。休み時間は職員室にいますから······」

 そう言って名簿を揃えると、阿部は「また五時間目に会いましょうね」と牡丹のような笑みを浮かべて去っていった。

「なあなあどゆこと? 酒ちゃん遂に肝臓ガンでも見つかったんじゃね?」

 ざわめき出した教室の中で、智が背もたれに肘を置きながら振り返る。否定できないところがもどかしいが、はじめは何だか胸騒ぎがして「さあな」と口を曲げた。

「おはよう。ほら、授業やるぞ」

 クラスの熱が冷めやらぬうちに、数学の槙野まきのが入ってくる。一が慌ててノートを用意していると、智が「まきちゃーん!」と先生を呼んだ。

「こら、まきちゃんとか言うな」

 槙野は呆れたように智を見る。しかし説教する気はないらしく、ため息を一つだけついて教科書を開いていた。

「なんか阿部ちゃんに酒ちゃんのこと聞いたら曖昧に交わされたんだけど酒ちゃんどうしたんですか」

「ちゃんちゃんちゃんちゃん忙しいな葛野くずのくんは」

 槙野は半目で智を見るが、すぐに「俺も詳しくは知らないんだ」とチョークを手にする。

「阿部先生が何て言ったのかは分からんが、状況が落ち着いたらちゃんと説明するつもりだ。阿部先生は昔から変なとこうっかりしてるからな。何か気になることでも口滑らせたか」

 どうやら槙野も話す気はないらしい。黒板の前のその背中からは、いつも以上に疲れた色が見て取れた。

 一体何があったのだろう。智も何か悟ったのか、「えー?」と口を尖らせつつ大人しくノートを開いている。


 数式を写していた手が止まる。普段は興味をそそられる数学の授業も、今日だけはどこかうわの空だった。













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