葛城皇子 2


 それからしばらく蹴鞠は続き、再び葛城の元へ鞠が回ってきた。それにしても、見事に鞠を拾い上げたあの男がやはり気になる。ちょうど真正面にいる彼は相変わらずの仏頂面で、小気味良い鞠の軌道を目で追っている。

 葛城は少々試してみようと思った。先程は手前に落としたが、今度はうんと遠くまで蹴り飛ばしてやろう。不器用そうに見えるあの男は、また真面目に鞠を拾うのだろうか。そう考えると、どうも面白くなってきて思わず口の端があがった。

 鮮やかな鞠が胸の前へ落ちる。距離を一瞬で測りとると、勢いをつけて足を振った。足先は確実に鞠を捉え、華やかな球が狙い通りに飛んでゆく。してやったと思った。元々蹴鞠が得意な葛城にとって、鞠を操ることなど造作もない。しかと陽に重なった丸い影にニヤリと笑った葛城だったが、次の瞬間軽くなった足先に「え」と間抜けな声を上げた。

 美しく伸びた己のつま先にはくつが無かった。慌てて影を追えば、勢い余って脱げた沓が青空高く舞い上がっている。それは鞠の軌道から少々外れ、斜め前方に飛んでゆく。正直またか、と思った。日頃から歩きにくいわ脱げやすいわで沓はあまり好きではない。それこそ蹴鞠をしていてすっぽ抜けるなど日常茶飯事であった。取りに行く面倒臭さにため息をついた葛城であったが、次の瞬間、再び目の前を横切った沓に目を見開く。

 葛城が斜め前方へ飛ばしたはずの沓。それが今度は軌道を変えて奥の方へと飛んで行った。一体何が起きたのか。訝しむように視線を動かせば、すぐさま葛城の顔が歪む。

 入鹿が沓を蹴っていた。目の前に飛んできた葛城の沓を、あろうことか蹴り飛ばしたのだ。それに気がついた途端、葛城は驚きと怒りの入り混じる顔で「は?」と低い声を漏らす。入鹿は何も言わなかった。まるで葛城のことなど見えていないかのように明後日の方向へ瞳を向けている。葛城の髪を撫でた風に荒い土の香りが乗っていた。

 一体何なのだ。先程まで丁寧に接してきた入鹿が急に己に顔を背けた。葛城は、何が起こったのか全く理解出来なかった。

 しかしそういえばこいつだ。こいつが古人ふるひとの後ろ盾になったのだ。それに気づき、葛城は怒りに顔を歪めた。先程自分の誘いを断った古人のそっけなさに、目の前の入鹿のすまし顔が重なる。その怒りは、ある意味悲しみとも言うべきだった。これまでの入鹿との仲は良好だった。古人と同じく、葛城が幼い頃はよく一緒に遊んでくれた。その若さで的確な指示を出せる力も評価していた。特に山背の件がそうだ。入鹿は山背大兄皇子やましろのおおえのみこを自害に追いやった。しかし山背を疎ましく思う皇族や豪族も多ったゆえ、彼が飛鳥の総意を引き受けて行動したことは明白だった。

 しかしそれとこれとは話が違う。この行動を、葛城は己への侮辱と取った。皇子が地に足をつけることは決してあってはならないこと。古人を担ぎあげて自分に対抗するならば、こちらとて容赦はしない。これまでどれだけ優しくされていようが、それはあくまで過去の思い出だ。

 そう思うが故に、葛城は軽く舌打ちをする。葛城は晒された素足で躊躇いもなく地面を踏みしめると、蹴鞠の輪から大きく外れた沓を目指して歩き出した。広場の端に葉を伸ばすけやきの木。暗い木陰に落ちた沓は黒々とうねりを上げているようだった。怯えきった様子の豪族たちを追い越し、入鹿の視線など一瞥もしない。すっかり色をなくした砂埃の中を堂々と勇ましく横切ってやった。


 しかし人の輪の端をくぐり抜けた時、一人の男が葛城を追い越した。驚いて足を止めれば、先ほど葛城の鞠を拾った男が素早く槻の下へ走ってゆく。そして黒の中に転がる沓を拾うと、木陰の切れ目で恭しく膝をついた。

「······」

 無言で沓が差し出される。燦々と照る太陽を浴びて、葛城は何も言わずに彼を見下ろした。先程と変わらぬ無愛想な仕草。しかしそこに見えたのは確かに葛城への信頼で、彼を覆い隠す木陰の闇にも負けぬ色があるのを知った。

 葛城は暗い色味に惹かれるように、土にまみれた右足を差し出してみせる。男は少し驚いたようだったが、すぐさま真面目な顔で土埃を払い、するりと沓をはめ込んだ。その時、葛城はどうも絆されたような心地がした。訳は分からない。ただ、木陰に霞む彼の顔をよく見てみたいとさえ思った。嫌なものではなかったのだ。その蔓に引かれるかのような感覚は。


「お前、名前は?」


 一言だけ問いかけた。彼は初めて葛城を見上げると、眩しそうに目を細める。日を背負った葛城の影が、真っ直ぐに彼に落ちていた。

「名乗るほどのものでもございません」

 初めて聞いた彼の声は顔と変わらず真面目だった。しかし、深く響くような低い声が心地よく耳の奥を震わせる。もっと見てみたいと思った、この無愛想で寡黙な男を。それゆえに、葛城はしゃがみこむと「こっちを見ろ」と声をかけた。葛城が頭を低くするとは夢にも思わなかったのだろう。ぶつかった視線はまさに獅子のようで、男はいささか驚いたようだった。

 しかし葛城は微塵も気にせずに男の瞳を覗き込む。中でうねりをあげる情熱に、やはりこの男は面白いと思った。

「いいから名乗れ。俺は皇子だぞ、逆らうな」

 鋭い瞳が男を貫く。そこに見えたのはやはり王の貫禄で、男はどこか嬉しそうに目を細めた。

「鎌足と申します。神官のお勤めは捨てましたが、中臣の出でございます」

「ほう、中臣鎌足か」

 葛城は満足そうに微笑むと再び立ち上がる。そして楽しそうな声音を持って「沓、ありがとな」と歯を見せた。

 葛城から先程までの怒りなど消えていた。どうも不思議なものだが、鎌足を見ていると嫌な気が失せる。しっかりと耳に響かせたその名前を、葛城は一生忘れるものかと心に刻んだ。

 これが千年も語り継がれる出来事になるなど誰が予想出来ただろうか。しかし葛城には既に希望が見えていたのだ。鎌足の瞳の奥に眠る情熱が、闇に浮かぶ松明のように、葛城の行く道に光を灯した。

 そのまま振り返りもせずに葛城は飛鳥寺を去る。もう蹴鞠のことなどどうでも良くなっていた。後ろの豪族たちなど気にもかけなかった。

 しかし、だからこそ葛城は気づかなかったのだ。土埃を払って立ち上がった鎌足に対し、入鹿がしてやったり、と友の門出を祝うがごとく嬉しそうに手を振っていたことなど······。














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