主従


 翌日の放課後、いつも通り生徒会でのダンス練習を終えて智と一は教室を出た。夏希や葵もいなくなると、途端に静けさが耳をくすぐる。残された秦也はくるくるとCDプレイヤーのコードをまとめながら、遠くに聞こえる吹奏楽部の合奏にふんふんと鼻歌を歌った。

「おや、練習終わっちゃいましたか?」

 入り口にいたのは化学教師の上宮聖うえみやひじりだった。秦也はニヤッと笑うと「先生ざんねーん、もうみんな帰っちゃいましたよ」と肩を揺らす。秦也は地学を選択したため上宮を見ること自体が少ない。しかし、彼が夏休み明けから生徒会の担当になると聞いていた。前任の酒井がやめてから、実に一ヶ月越しの任命だった。

「上宮先生は生徒会の様子見ですか?」

「まあそんなところですかね。これから学園祭で忙しくなりますし、智くんたちが言っていた梅山中学の花壇の件があったでしょう。あちらから交流会をしてもいいとの返事が来たので伝えに来たんです」

 冤罪事件のあと、智と梅山中学の成明なりあきはしばしば連絡を取りあっていた様だった。写真の一件からこんなにも仲良くなるものかと、秦也自身興味深く思っていたところである。

「なら明日にでも智くんに伝えてあげたらいいんじゃないですか? 確か上宮先生担任でしたよね?」

「ええ、ではそうしましょうか」

 CDプレイヤーをロッカーに片付け、秦也は教室の入り口へ向かう。しかし上宮の前まで来るとチラッと足を止めて見せた。


皇子みこ様は相変わらず心の読めない御方ですな。あの子たちの担任になったのに何も変わらない」


 ぐるりと渦巻いた愉悦が秦也の瞳に色を灯す。たった十八の少年とは夢にも思えない毒々しい色。そこに見えた、からかいにも近い薄笑いに上宮は思わず眉をあげる。しかし不思議がることもせずに口元を緩めると、「相変わらずなのは貴方ですよ、河勝かわかつ」と苦笑した。

「あの子たちは誰なんです? 私には入鹿さんしか分からなかった」

「そりゃあそうでしょうな。片方は中臣の出なので皇子様にお目にかかることはなかったと思いますし、もう片方は貴方様がお隠れになった後にお生まれになりました」

「おや、そうですか。随分とお若い方ですね」

「ええ、田村大王たむらのおおきみの皇子で、中大兄なかのおおえにあたる方」

「田村。結局あの方が大王になったのですか。なら智くんは山背やましろと争った古人ふるひと葛城かつらぎあたりですか?」

 さらっと言って見せた上宮に目を細める。ああ、その聡い頭だ。昔から彼の鋭さが好きだった。

 秦也がそちらを見上げれば、上宮は考え事をするかのように窓の向こうの夕空を眺めている。そこに見えたのはかつての主君・厩戸皇子うまやどのみこによく似た顔で、悠々と広がる飛鳥の空が懐かしくなった。

「河勝は知っているのですか? 彼らが誰で、何をしたのか」

 上宮は長い睫毛に夕日を絡めながら秦也を見た。どこか人間離れした端正な顔。その仏のような美しさに「ええ」と思わず笑みが漏れる。

「私はちょうどあの子たちが舵を取り始めた頃に旅立ちましたゆえギリギリ知ってますよ」

「随分と長生きですねえ貴方は。舵を取ったということは、葛城皇子と中臣鎌足あたりですか」

「さすがは皇子さま、その通りで」

 上宮はそれを聞いて呆れたように笑う。そこでやっと人間の顔に戻った気がした。

「なるほど。だから貴方は面白いと言っていたのですか。確かになぜ入鹿さんが彼らとつるんでいるのか不思議ですね。翔太くん、私を見る度に目を逸らすので覚えてるんじゃないですか?」

 まるで初々しい子供を愛おしくからかう時のような声音だった。秦也は上宮の瞳を見つめると、その奥に滲む水底のような黒を目に焼きつける。この上宮も十分不思議なのだ。慈悲に溢れた仏の顔の中で、ふとした時に見せる万物を貫くような鋭い牙。紙一重かつ正反対な顔が、河勝が厩戸に惚れた理由だった。

「まあ当時の山背さまや入鹿さま、そして葛城さまのお気持ちはお察し致しますが、裏にいたのが鎌足なのではないかと思ってますよ私は。しかし私とて常に飛鳥にいたわけではありませんゆえ、なぜ今になって仲良くしているのかなど分かりかねますね」

 そう言ってのけると秦也はスクールバッグを肩にかける。そして上宮の方を振り返ると、ニコッと年相応に笑って見せた。


「じゃあさよなら上宮せーんせ、また今度お話しましょーね」


 ヒラッと片手をふって教室を出る。途端に放課後の橙が視界に舞い戻り、上宮は思わず苦笑した。そこにあったのはかつての側近でも何でもない、ただ一生徒いちせいとの背中だけだった。







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