輪廻


「はあ? 智が思い出したかもしれない?」

 思いがけない言葉に眉間が狭まる。しかし、目の前でちまちまとアイスクリームを食べていた翔太は「うん」と素直に頷いた。

 翌日の放課後、二人だけで話したいと言われたので、一は部活のある智を置いて駅前の小さな喫茶店へ入った。帰宅ラッシュには早いのか客の姿はまばらである。軽快なジャズが流れる中、簡単な注文が届いたところで翔太は戸惑ったように不安を打ち明けてきた。

「昨日帰り一緒だったんだけどさ、なんか一に誰かの面影重なってるみたいで。だから鎌足なのかなって思って」

「いやでも智だぞ? 思い出してたら絶対分かりやすく反応するだろ」

 一の意見も最もだった。翔太は正論を言われて「それはそう、だけどさ」と身を小さくする。しかし一としても興味はあった。翔太が不安を打ち明けることなどそうそうない。きっと一人で悶々と考え込んだ結果、一に縋ってきたのだろう。

 彼は再び一人で考え込むと、チョコレート味のアイスクリームを掬っていたスプーンをコトリと置く。形の良い眉を寄せて俯いたあと、「んー」と小さく口を曲げてみせた。

「まだ思い出してはないのかな。でも思い出しかけてると言うか」

「予兆はあるって感じか?」

「そう、多分」

 想像もしていなかった相談に首を唸りながらコーヒーを口に運ぶ。まだ熱かったようで少々舌がヒリヒリした。クーラーが効いているからとホットにしたが、窓際の席は西日が差し込んで思いのほか暑い。いっそのことアイスにすれば良かったなどとどうでもいいことを考えた。

「あんまり気にしなくていいのかな」

 翔太は氷がたっぷりと入ったアイスティーをカラコロとストローで混ぜる。空の橙が映りこんだグラスの淵を水滴が滑り落ちていった。それが添えられた翔太の左手に伝ったところでふと葛城かつらぎのことを思い出す。


 智によく似た······いや、智よりも獅子のようなかつての主君。彼の人格が今の智の中に蘇ったらどうなるのだろう。それは一が過去を自覚した小学生の時からの不安だった。正直、翔太が過去を思い出してもさほど影響はないと思っていたし、今の様子を見ると実際そうである。昔から線引きの上手い彼だからこそ、過去にとらわれすぎない心の強さは信頼していた。

 しかし智はどうだ。彼は強いように見えて脆い部分がある。かつての自分と今の自分を上手く割り切れるのだろうか。良くいえば明るく素直で、悪くいえば単純で自己中心的な彼の熱情。それが記憶のすれ違いの中で暴れ出さないだろうか。そこが一番不安だった。

「もし思い出したらさ。嫌われるかな、俺」

 翔太が自嘲したようにくすりと笑う。またこの男は笑って不安や寂しさを誤魔化す。やはり生まれ変わろうとも変わらない自分たちに、智の記憶が蘇ることが怖くなった。

 智は全て思い出した時、目の前の翔太を誰だと認識するのだろう。変わらず鞍本翔太だと笑ってくれるだろうか、それとも······。

 眉をひそめ始めた一に気づいたのだろう。翔太は「ごめん、怖い顔させる気はなかった」と肩をすくめる。

「もしもさ、智が思い出して俺の事避けるようなことがあれば、一は気にせず傍にいてあげてよ」

 思いがけない言葉に顔を上げた。こちらを真っ直ぐに見つめていた翔太が目を細めておどけたように笑う。

「俺は智のこと好きだけどさ、智が葛城さまになるようだったら、そばに居るのは鎌足が良いと思う」

 どうやら自分も甘かったようだ。そうやって歯を見せる翔太の顔に、最後に見た入鹿の顔が重なった気がした。彼は面影のあるまま眉を下げると、「調べたよ」と肩をすくめる。

「葛城さまが亡くなる二年前までずっと傍に居たんでしょ? 思った通りだ。鎌足ならあの人と歩けると思ってた。俺は無理だよ、怒らせそうで怖いもん」

 コーヒーに触れていた手に違うぬくもりが蘇る。かつての自分が死ぬ直前、この手に触れていたのは誰だっただろう。それが確かに葛城だったと気づき、左手に欠けていた薬指を思い出し、何故か遠い昔が恋しくなった。

「いいや。葛城さまならきっと······」

「?」

 呑気にストローを咥えていた翔太が首を捻る。夕陽に染まるその瞳をしばし見つめると、一は珍しく口元を綻ばせて苦笑した。

「いや、智がお前を避けるようなことがあればしっかりと諌めるさ。智が大王おおきみでもなければ、俺も中臣じゃないしお前も蘇我じゃない。それに、本当はお前にも横にいて欲しかった。あの葛城さまを一人で面倒見るのは大変だぞ」

 翔太は驚いたようだった。彼の唇から滑り落ちたストローが紅茶の中でカランと氷を揺らす。しかし直ぐに口元を手の甲で隠すと、「お前昔からママしてたのかよ」と眉を下げて可笑しそうにはにかんだ。

「うるせえ。あんな自己主張激しい子産んだ覚えはありません」

「でも智ところどころ子供っぽいから」

「お前本人の前で言ってみろ。また首から上無くなるぞ」

 黒い冗談で言い返してみたが、そこに怒りなど微塵もなかった。おどけたようにからかった翔太も本気で馬鹿にする気などないのだろう。口元を手で隠すのは、彼がくすぐったそうに恥ずかしがっている時の癖だった。


 智が思い出したら何を話せば良いのだろう。案外、いつも通り智を宥めればそれで済む話なのかもしれない。そう思うとどこか気が軽くなったようで、耳から遠のいていた軽快なジャズが再び鼓膜を心地よく揺らす。いつの間にか冷めていたコーヒーを喉に流し込むと、苦味の中にまろやかな香りが立ち上った気がした。










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