予兆
「あれ、もう帰るの?」
珍しく一人で靴を履いている智を見つけ、翔太はきょとんと目を丸くした。終業式間近の放課後は気の抜けたような空気に包まれ、テストの結果を嘆く誰かの声だけが昇降口を出ていく。
「んー?」と間抜けな返事をする智の横へ行くと、彼は履きなれたスニーカーに足をはめ込みトントンとつま先で地面を叩いた。
「今日歯医者だから帰る」
翔太は使い古された下駄箱に手をつき、つるりと夕日を照り返す革靴を踵にはめた。智が部活も生徒会もせずに帰るなど三ヶ月に一度あるかないかだ。せっかくなので車で送るといえば、彼は案の定ニカニカと後ろを着いてきた。
「そういやなんかやるんだって? 生徒会」
小耳に挟んだ噂を呟くと、「まあな」という返事が返ってくる。しかしどこか声音が揺らいだように思えて、思わずそちらへ顔を向けた。
「なんかさあ、最近モヤモヤするんだよな」
唐突な言葉だった。珍しく弱ったように眉を寄せている智を見て、「何が?」と無意識に疑問が漏れる。
「生徒会の先輩にすっげえ胡散臭ぇ人いるんだけどさ、どっかで見たような気がするんだよ」
生徒会の人なら入学時の説明会で見かけたのではと思ったが、どうも違うらしい。学園祭に向けてダンスの練習をしているうちに、その人の踊り方に既視感をおぼえたのだそうだ。妙なこともあるものだと軽く相槌をうっていたが、智は話のネタといった様子ではなく真剣に考え込んでいるようだった。
「それにはじめもさぁ」
智がサッカー部指定のスポーツバックを肩にかけながら目線を上げる。
「なんっか最近違和感あるって言うか、なんつーの? 顔がぼやけるというか、重なる?」
「はぁ······乱視?」
「ちげぇよずっと視力Aだよ! そういう物理的なやつじゃなくて、こう、概念というか、存在自体? んー分からん!」
ムキになって地面を蹴った智に、「ごめん、俺も分からないや」と返すことしか出来なかった。彼は頭の中にある違和感を必死に言語化しようとしていたようだが、当てはまる言葉は見つからなかったらしい。喉に何かがつっかえているかのように眉を寄せると、「はぁぁ」と深くため息をついて話を変える。
「そういや怪我治った?」
「ん? ああ、もう大丈夫。絆創膏くらいしか貼ってないし」
シャツの襟元をつまみ下げて首筋を見せてやれば、「ならいいけどさ」と治癒を確かめるかのようにじろじろの視線が注がれた。小学生の頃から共にいるが、よく擦り傷やたんごぶを作っていた智に対し、自分は滅多に怪我などしなかった。身体を張った遊びは父にとめられていたので当然なのだが、だからこそ智は今回の怪我にショックを受けたようで、度々傷の経過を尋ねてきては珍しく肩を落として謝ってきた。そこまで心配されるとこちらとしても心がもだもだするのだが、素直な智相手だからこそ真っ直ぐな気持ちを受け取りたいと思っている。
今回も「ごめん」と呟いた智に「おう」と苦笑して片手を振ってみせた。しかし、彼は突然ハッとしたかのように背筋を伸ばす。思いがけない動きにビクッと肩を震わせていると、「そういやお前もそうだな」とどこか獅子のようなつり気味の猫目を向けられた。
「あのさ、変なこと聞くけどさ」
智がついっと目を細める。
「前もこんなこと無かったか?」
「······は?」
こんなこと、とは何なのだろう。疑問が頭を埋め尽くすが、その奥でトクリと鼓動が響いた気がした。
目の前の智は自分でも不思議だと言いたげに首をひねっている。しかしこちらをしかと見つめる瞳の歪みに、違う誰かの面影が見えた。
「俺さ、お前に怪我させたことなかったっけ。小学校? 中学校? それも分からないけどさ、多分顔周りで······」
鼓動が速まる。何がまずいのかは分からないが、とにかくこれ以上は踏み込んでいけない気がする。その言い様もない危機感に視界が揺らぎ、嫌な汗が背を伝った。
彼に思い出させてはいけない。誰とも言えぬ声が聞こえる。きっと直観的なものなのだろう。そう思うのに理由は要らなかった。
口元が麻痺したように引き攣るが、無理やり頬をあげると「気のせいじゃない?」と首を傾げる。
「小学校でも中学校でも怪我させられた覚えないよ」
そう言ってやれば、「そう? やっぱそうだよな」と獅子の眼が前に向き直る。そこにいたのは確かに同級生の葛野智で、見慣れた横顔にほっと震える息が漏れた。
大丈夫。彼は何も知らないのだ。何も知らない彼のままでいい。
無意識に膨らんだ不安が心の奥を蝕む。既に傷は塞がったはずなのに、首筋がつきりと痛んだ気がした。
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