蘇我入鹿 3


 西暦六四五年六月十一日。

 夜の闇も濃くなった深夜に、入鹿の居室の扉が開いた。薄明かりの中に懐かしい顔が見える。入鹿は彼に気づくと「ほんとに来たんだ鎌足」と笑った。

「明日のことだ。概要は決まったから伝えに来た」

「そっか、ありがと」

 入鹿の前に座った鎌足は葛城と立てた計画を淡々と話し始める。それはもちろん、今目の前にいる入鹿本人を殺すための計画だった。


 散々話し合った結果、鎌足と入鹿は一つの答えに辿り着いた。独裁制と合議制、どちらも並行で進めれば良いのだと。

 まず、一権集中をはかれる立場にいた入鹿が各豪族を強制的にまとめあげる形で独裁政治を行った。その間に唐が攻めてきてもある程度は対応ができるよう、即興で独裁国家を作り上げたのだ。もちろんそこには穴もあれば不満も起きる。

 しかしその裏で、鎌足が中央集権国家の土台を作り始めていた。入鹿の陰に隠れ、入鹿に不満を持ち始めた不満分子をまとめあげ、次の世のリーダー達を育てていたのだ。

 人がまとまらぬなら、一つの大きな敵を作ってしまえば良い。それを学んでいた二人だからこそ辿り着いた答えだった。そして、その敵を倒す勇者として選ばれた男こそが葛城皇子である。

 唐という獰猛な虎に対し、まずは錆びた剣をもつ入鹿が立ち向かう。しかし失敗するのは目に見えていた。それゆえ、鎌足が丈夫で精巧な弓矢と剣を作っておく。そしてそれらの武器を使う勇者を選んでおくのだ。

 そうすれば、例え入鹿が失敗したところで鎌足が作った精巧な武器がある。加えて入鹿の失敗を不満に思う人々は鎌足の元で一つにまとまる。それが後に、勇者となる葛城の元で大きな力になるとふんだのだ。


 案の定、入鹿は失敗した。それゆえ明日殺される。全てはシナリオ通りだった。

 しかしながら、入鹿を訪ねてきた鎌足は複雑な顔をしていた。大方気味が悪いのだろう、明日死ぬというのに笑っている入鹿が。

「明日、お前はいいとして蝦夷殿はどうする」

 鎌足がどこか引きつった声で聞いてきた。入鹿は振り返ると、鎌足を連れてきていた部下の徳多を見る。

「徳多、明日俺が死んだらすぐに父上の元へ行け。護衛の東漢やまとのあやたちと結束して反撃してくる可能性は皆無じゃない。そうしたらお前が東漢を説得しろ。お前の次の主人は葛城さまだ、いいな?」

 徳多は目を丸くして首を横に振ったが、入鹿が「最後の命令だ」と言えば大人しくなった。泣きそうな徳多を横目に、鎌足が「いいのか?」と言いたげに眉を寄せる。

「いいよ。父上には悪いけど、ここで父上だけ生き残らせるわけにもいかない」

 入鹿は寂しげに笑った。父の蝦夷を殺すのは嫌だった。どこまでも自分に寄り添ってくれた父だ。過保護すぎる部分もあったが、それでも彼が父で良かったと思っている。祖父の馬子がカリスマだったゆえ、父の蝦夷は何かと周りに比較されて文句を言われた。それでも自暴自棄にならず自分を育てあげてくれた。そんな父を最後まで愛していた。

 鎌足はそれを聞くと、「分かった」とだけ言って話をまとめて帰って行った。どこまでも寡黙なやつだと思った。余計なことは言わず、実に合理的な会話だった。感情に乏しい雰囲気もあるが、あれでいて中身は熱いのだ。葛城への執着を見ても思う。彼が選んだ葛城は、きっと理論的に見ても感情的に見ても優れているのだろう。だから入鹿は鎌足と葛城を信じることにした。


 鎌足たちが消えると、一気に夜の闇が帳におりてくる。耳が痛くなるような青白い静寂の中で、そっと窓の向こうに広がる飛鳥の大地を見つめた。

 月明かりに照らされる街並みはいつもと変わらず美しかった。木々の香りを孕んだ夜風に髪を揺らすと、そっと寝床に潜り込む。

 鎌足と話している時は、別に自分が死んでも良いと思っていた。少々疲れたのだ。足元が安定しない山の上で過ごすのは。

 しかし、こうして一人になってみると死の香りが一気に迫ってくる。窓から差し込む月明かりも、帳に透ける鳥の装飾も、父から贈られた簪も、今朝徳多が生けてくれた可憐な花も、全てが、目の前にある全てが今日で終わるのだ。明日、自分に夜は来ない。もう二度と、この月明かりに溺れた景色を見ることは無いのだ。

 そう思うと、雨が降るように涙が溢れてきた。泣こうなどと思っていないのに、何故か止めることは出来なかった。

 いっそのこと、明日の朝、鎌足や葛城を殺してしまおうか。そう考えてしまう自分もいる。しかし、そうした所でいつかは他の誰かに殺されるのだろう。きっと、父からの冠を拒めなかったあの日からこうなることは決まっていたのだ。少し、自ら死期を早めただけ。むしろいつ死ぬか分からないよりは、明日死ぬと決まっていた方が心は晴れやかなのかもしれない。

 肌触りの良い布団の中で身体を丸める。サラリと鳴った衣擦れの音だけが辺りに満ちた。幾分か過ごし慣れてきたこの山の上の自室は、いつもと変わらず静かだった。

 少し雨の香りを含んだ夜風が舞い込んでくる。池があった昔の屋敷をほんの少しだけ思い出した。祖父と共に池の魚を眺めた日、兄のように慕っていた山背皇子やましろのみこと遊んだ日、小さな学堂で鎌足に筆を貸してあげた日、父の優しい手に冠を譲られた日。全てが昨日のことのように思えたが、それも淡い月影にぼやけていった。


 眠れないまま夜の空だけが流れていく。

 入鹿の命が尽きる、ほんの数時間前の話だった。











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