蘇我入鹿 2


 入鹿が大臣おおおみになった当時、倭国は二つの大きな不安を抱えていた。

 一つは大陸からの圧力である。隋に代わって中国を統一した唐という国は、朝鮮半島北部の高句麗と緊張状態にあった。朝鮮半島はただでさえ百済と新羅がいがみ合ってきたのだが、そこへ高句麗や唐といった不安の種がさらなる芽をのばし、倭国をも震撼させていたのである。

 唐は、倭国と高句麗が結びついては困ると思ったのか、高句麗と手を結ばぬよう倭国に牽制をかけてきた。しかしその牽制というのが厄介なもので、倭国本土に軍隊を派遣する軍事的圧力だったのである。入鹿の父・蝦夷えみし甘樫丘あまかしのおかに館を移したのもこの軍隊の監視が目的だった。

 下手な動きをすれば、唐から攻め滅ぼされるかもしれない。しかし今唐に媚びを売ったところで、高句麗が滅べば今度は手の平を返して倭国を攻めてくるだろう。そんな不安が国中に渦巻いていた。


 しかし外にばかり気を取られていてはいけない。この時倭国が直面していた二つ目の問題として、朝廷に仕える豪族たちの内紛が挙げられた。特に蝦夷・入鹿らの蘇我氏は一族内での内輪もめが大きくなりつつあった。蝦夷が長男の入鹿に大臣の位を譲ったことに対し、無下にされた蝦夷の弟たちが不満を持ったのだ。加えて当時の大王おおきみは入鹿への信頼が厚かった。そのような小さな嫉妬が積み重なり、蘇我の分家のものたちがじわじわと総本家に恨みを抱き始めたのである。

「この状況で唐から倭国を守るにはどうすればいい?」

 入鹿は文を通じて鎌足に問いかけた。当時、鎌足は現在の大阪府内にあたる三島という土地にいた。彼は中臣を継がずに家を出たのだ。それに理由があることも知っていたので、入鹿はさほど問い詰めなかった。むしろ、家を捨てられる鎌足の勇気に尊敬の念さえ感じた。

 そんな鎌足は、入鹿に返事を書いて寄こした。そこには「大きな方法は二つ目あると思う」と書かれている。入鹿は少々ほっとした。自分が考えていた選択肢も二つであったからだ。

「今の合議制を貫くなら豪族たちをまとめる必要がある。今の朝廷の状況はどうだ?」

 あれをまとめるなら早くてあと数十年はかかる。悪いが蘇我が一番まとまっていない。そんな呑気なことしてたら唐に喰われるかもしれない。

「一番手っ取り早いのは誰かに権力を集中することだろうな。それは大王に······と言いたいところだが、正直大臣かつ大王に好かれてるお前が独裁してくれた方が話は早い。それなら唐がいつ攻めてきてもある程度の対応は出来るだろう」

 どこか懐かしい鎌足の字体を目でなぞっていたが、二つ目の提案を見て眉をしかめた。自分もそれが一番早いと思うのだ。今現在、各豪族に素早く指示を出して命令できるのは自分なのである。それを頭では分かっているが、唐を相手にしながら的確に指示を出せる自信などない。それに、ただでさえ一族内の不満が高まっているのに、独裁などすればますます倭国の地盤が緩むだけだろう。

 そうは思うものの、悠長に豪族を宥めていれば、その間に唐に攻め込まれるかもしれない。そちらの方が国の存続に関わる大きな危機であると思った。そう考えれば、独裁制を取った方が良いのだろうか。唐に攻められている高句麗も合議制から独裁制に転換したばかりだが、あの国はそれで上手くいった。倭国とて成功する可能性がなくはない。


 ぐるぐると思考を回していたら頭が痛くなった。少し外の空気を吸おうと窓を開けたところで、「あ」と脳内に一筋の風が吹く。

葛城かつらぎさまは?」

 鎌足への返信にそう付け足した。文を信頼している部下の徳多とこたに持たせ、三島へ向かう背中を見送る。

 葛城皇子。中大兄なかのおおえとも呼ばれる彼のことを鎌足は以前から気にかけていた。入鹿が厩戸の子である山背を攻め滅ぼしたのも、周りの総意を引き受けたという理由もあるが、相談に乗ってくれた鎌足と共に葛城のライバルを消そうとしたという理由もあった。それだけ、鎌足が葛城に向ける希望の色が強かったのである。それを感じ取っていた入鹿は、ふと彼の存在を問いかけた。

 それが二人にとって、そして倭国にとっての転機を呼ぶ、初めの合図となったのだった。













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