第三・五話

蘇我入鹿 1


 しとしとと降る雨が水と土の香りを室内に運んだ。小高い山の上に建てられた屋敷はしんと静まり、雨と木々の音以外何も無い。

 空が近いこの場所は、どこか足が地につかない心地がしてまだ慣れることが出来なかった。しかし雨が水辺の香りを運ぶと、幼い日を過ごした前の屋敷を思い出して少しだけ心が穏やかになる。祖父が建てたかつての屋敷は、庭にあった大きな池がお気に入りだった。


 そんなとりとめもないことを考えながら、入鹿はぼんやりと外を眺める。つい昨年、自分は大臣おおおみという位を貰った。大臣は、曽祖父である稲目から代々蘇我の本家が引き継いできた宰相たる地位である。しかし自分と彼らの違いがひとつ。それは大王おおきみではなく父・蝦夷えみしから位を譲られたことだ。

 本来であれば、大王が臣下に位を与える。それは大臣とて同じである。しかしながら、どうも父は独断で位を譲ってきたような気がするのだ。確かめたわけではないが、何となくそんな気がしてならない。それを父に確かめようにも、父は優しく笑って「大王の許可はとってある」とはぐらかすだけであった。


 いっそのこと辞退すれば良かったのかもしれない。しかし父の蝦夷はいつも自分を一番に考えてくれるゆえ、どうも断りづらいのだ。周りの人は皆が父の愛を大きすぎるという。確かにもう自立しても良い歳なのに、未だに自分を生娘のように扱う。

 数年前にも、父は通っていた学堂をやめろと言い出した。通わせたのは父なので、どうしていきなりそう言うのかと問いかけたが、「わざわざ外へ出かけて通わずとも師を屋敷に呼んで教えてもらえば良い」と言われた。そう言われてしまえばそうなのである。しかし、学堂にいれば他人の意見が聞ける。そこには師の考えだけでは学べない何かがある。そうは思っているものの、父に逆らう気はなかった。父のことが好きだからである。暴力を振るわれたわけでも、脅されたわけでもない。いつも自分を気にかけてくれる優しい父にわざわざ反抗するのも気が引けた。それゆえ入鹿は学堂にいかなくなった。それと同時に、鎌足という議論の相手を失った。


 しかしながら奇妙なもので、鎌足は自分から話しにやってきた。正直そこまで話しかけられるとは思っていなかったので、突然訪ねてきた彼に驚いた。結局、自分と親しかった巨勢徳多こせのとこたという男が間を取り持ってくれることとなり、手紙でやり取りをするようになった。

「お前は大臣になって何をする」

 そう問いかけられた時は正直何も答えられなかった。自分は未熟で世間知らずな人間なので、父から位を譲られたところで何をすれば良いのか分からない。それを今から探るのだと言うと、鎌足は「そうか」とだけ返事をよこした。この男は文面でも寡黙なのかと笑ってしまった。


 全てはそこから始まったのだろう。彼とやり取りをするうちに、今の倭国がどれほど危ういかが浮き彫りになった。それは当時の倭国の土台がゆるかったこともあり、大陸の情勢が緊迫していたこともある。それゆえ入鹿は大陸の政治に重点を置こうと考えた。ここから、入鹿と鎌足の密やかな改革の計画が始まったのである。













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