薄暗い病室の中で、何かがそわそわと首に触れる心地がした。薬を飲んだからか頭が重い。ぼんやりとした意識の中で瞼をあげようとした時、「ごめんな」という小さな声がして頬に冷たい手の平が触れた。

「今度は絶対に守ってやる、絶対に殺させたりしない」

 聞こえてきた声に翔太は目を開けるのをやめた。頬にかかる震えた息は雨の前触れのような音をもっていた。

 ああ、やはり覚えていたのか。前から気になってはいたのだ。父の言葉の端々に聞こえる雨音が。

 そんなことを考え、翔太は耳に流れ込む父の言葉を受け止めた。

 静かな一部屋は個室だった。命に関わることは無いのだから相部屋で良いと言ったのに、父の燕二えんじは頑なにそれを拒んだ。その理由がわかった気がして、目が覚めたのを悟られないように緩急のない寝息を立てる。


 父は全て覚えていた。この父はきっと昔も自分の父で、都を支える大臣おおおみ蘇我蝦夷そがのえみしだったのだろう。だからこそ、溢れ出す気持ちを整理できるように二人だけの空間をつくったのだと思う。

 全く変わらない。囲うのが好きな父は、生まれ変わったとて結局は同じなのだ。それは一や智を見ていても思う。人が変わったとて根本的なところは変わらないのだろうか。それは自分にも当てはまるような心地がして、翔太は人知れず深い息をついた。

 父の手は震えていた。その異常な怯えは、まるで自分が死の瀬戸際にいるかのように錯覚をするほどだった。それだけ怖かったのだろうか、自分を······己の息子を失うことが。それだけ、自分のことを愛してくれていたのだろうか。

(ごめんなさい、父上)

 心の中で小さく呟いた。パラパラと降り出したにわか雨が柔らかく病室の窓を打つ。


 父はきっと恨んでいる。智のこと、葛城皇子かつらぎのみこのこと。前世の自分が殺されたあと、死の知らせを聞いただけで自害したというのだ。もしもあの場に父がいれば、迷わず葛城を殺していたかもしれない。

 父は自分の首を見たのだろうか。あの滝のような雨音がぷつりと途切れてからは何も覚えていないが、図書館で読んだ本にはただ遺体を転がされたとしか書かれていなかった。自分は父の元へ帰ったのだろうか。父は自分の最期をどう思ったのだろう。愚かだと思ったろうか、それとも······。

「······るか、いるか」

 ふと懐かしい名前が鼓膜を揺らした。それは確かに父の声で、思わず返事を返しそうになった。

 なぜその名前で呼ぶのだろう。今ここにいるのは鞍本翔太なのだ。昔のことなど変えられないし、そもそも変える気なんてない。自分は間違っていなかったと思う。最期は一粒の後悔もなかった。そう思っていたからこそ、上を向いたのだ。

 しかし、包帯越しに触れる父の手から鼓動が流れ込むと、ほんの少しだけ申し訳ない気持ちになった。

 父は知らないのだ。何も。

 父はきっと、自分を殺したのは葛城だと思っているのだろう。しかし実のところは違う。確かにこの首を斬り落としたのは葛城であったが、そう仕向けたのは他でもない自分なのだ。初めから仕組まれていた脚本を自分は演じただけなのである。それを書いたのは己であり、同じ方向を向いていた鎌足だ。葛城は我々の脚本に踊らされていただけ。

 そんな言い方をすると鎌足は怒るだろうが、実際そうであろう。あの男が自ら首を狩りにこなかったのが証拠である。あそこで目立つべき主役は葛城でなければならない。己と鎌足が選んだ主役こそがあの皇子だったのだから。

 だから、悔いも何もなかった。

 しかし、震える手で自分を抱きしめる父を見ていると、何だかやるせなくなってくる。父の最期がいかなるものか、歴史書を読んでも詳しいことは分からなかった。しかし、確かに言えることが一つある。

 それは、父を殺したのは自分だということだ。蘇我蝦夷を殺したのは他でもない蘇我入鹿なのである。それだけが溶けきらない飴玉のように、いつまでも胸の内につっかえていた。


 瞼の向こうで頬をなでる父の手に、どこか懐かしい迷夢が蘇る。今更目を開けることも眠りにつくことも出来ぬまま、ただただ窓を打つ雨音と父の嗚咽を受け止め続けた。その間、父が己の首から手を離すことは一度もなかった。










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