燕二


 翌日、部活を休んだ智と一は翔太のお見舞いに行くことにした。丸一日入院していたため、今日は学校へ来ていなかった。

 正面入り口から病院へ入ると鞍本家のばあやが待っていてくれた。彼女は頭を下げて謝る智に、「大丈夫よ。故意ではないのだから責めたりしないわ」とシワの寄った眦をふわりと下げる。

 エレベーターに乗ったところで話を聞くと、首の傷は重症ではなかったらしい。しかしある程度深く切れており血が止まらなかったため、いくらか針で縫って対処したとのことだった。早めの対応が出来たこともあり、今は病室で安静にしているのだそうだ。

 とりあえず、命に別状がなかったことを知って智が少し肩を下ろした。呼応したかのように、エレベーターの無機質な音がポンと辺りに響く。

「旦那様がずっと付きっきりで看病なさっているのですよ。ぼっちゃまの怪我が治るまでは仕事へ行かないとまでおっしゃって······」

 智と一を先に降ろすと、ばあやは少し困ったようにため息をつく。企業グループのトップである翔太の父は相変わらずの過保護っぷりだった。

 今も病室にいると聞いて智はまた顔を固くした。こんな状態で顔を合わせるのも怖いのだ。故意ではなかったとはいえ、感情的になったことや怪我をさせたことは事実なのである。翔太を傷つけたことで、彼がどんな顔をしてくるのか分かったものではなかった。

「大丈夫、一緒に謝るから」

 それを聞いて、智は少し縋るように一を見たあと「分かった」と一言だけ返した。そして大きく深く息を吸うと、意を決して病院のドアを叩いた。

「失礼します。葛野智くずのさとしです。あの、この度は翔太に怪我をさせてしまい本当に申し訳ありませんでした!」

 勢いよく頭を下げた智の奥に、こちらを見つめる大柄な男性が見えた。上品な出で立ちをしてはいるが、顔はどこか疲れに蝕まれている。

 彼が翔太の父・鞍本燕二くらもとえんじである。燕二は智の言葉を聞くと、「智くんか」と静かに呟いた。

「今回は助かったがもっと深く傷がついていたらどうするんだ。それこそ頸動脈なんかが切れたら死んでしまうかもしれないんだぞ。それに針の痕だって······」

「父さん、大丈夫だってば」

 こちらを鋭く見つめながら捲し立てた燕二に、ベッドに横たわっていた翔太が小さく制止の声をあげた。驚いたように見つめると、「翔太、大丈夫なわけないだろう。お前に何かあったら私は······」と燕二が辛そうに眉を寄せる。

 本当に一人息子を溺愛しているようだった。普段は貫禄のある雰囲気をしているが、今は一変している。きっとこちらが本当の彼なのだろう。こちらの事など見えていないかのように翔太翔太と声をかける燕二に、翔太は少し疲れた顔をしながらキッパリと言い切った。

「いいの、無事だったんだから。智だって悪気があったわけじゃないって言ってるでしょ」

 一はキョトンと瞬きをした。驚いたのだ、翔太が父に対してハッキリと物を言ったことに。彼はいつも父の檻の中で生きてきた。それは昔からだった。しかし今、目の前で顔を上げる翔太はどこか吹っ切れたかのような面持ちをしている。それに驚いているのもつかの間、燕二は不意をつかれたかのように黙り込む。

「智はいつも俺の事笑わせてくれるの。俺の友達のこと悪く言わないでよ、悲しいから」

 心の内が分かりやすい単刀直入な言葉で表されていた。いつも遠回しな物言いをする翔太にしては珍しい。驚くと同時に、案外口に出さないだけで父の扱いには慣れているのかもしれない、などと考えた。

「俺からも、謝らせてください。この度は智が怪我をおわせてしまい申し訳ありませんでした」

 翔太の姿に背を押され、一も深々と頭を下げた。智が泣きそうな顔をすると、もう一度謝罪を述べて頭を垂れる。

 燕二はどこか困ったように眉を寄せたが、一度翔太の顔を見てから「分かった。翔太が言うならそれでいい。次からは気をつけてくれ」と話を締めくくる。智は驚いたように言葉を受け止めると、「ありがとうございます」と肩の荷を下ろす。見舞い品と授業のプリントを受け渡して病室を去った二人の背中を、翔太が柔らかく笑って手を振りながら見送った。








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