所以


「とりあえず血が止まるまで大人しくしてろ。ただ、親に電話だけ入れて欲しいんだが······」

 ツンとした独特の匂いが鼻を撫でる。観葉植物が並べられた窓辺のソファに向け、養護教諭の柳元やなぎもとが戸惑ったような声を投げた。

 ソファに座り込んだ翔太は何も答えない。ただ何かに怯えているかのように手が震えているのは確かだった。

「先生たちの方で電話入れてもらうことってできないんですか? 翔太話せそうにないので······」

 隣に座っていた一は頼み込むように柳元を見上げる。彼は少し困ったような顔をしたものの、「分かった。まあ本来なら同意はほしいんだけどな」といいながら手に持った包帯を片付ける。

「職員室に連絡名簿あるから相談してくる。担任は上宮うえみや先生だったよな? 二人だけで大丈夫か?」

「はい、大丈夫です。上宮先生にもよろしくお伝えください」

 やけに落ち着いている一を見て、柳元は不思議そうに眉を寄せた。しかし微妙な変化も直ぐに消え、「とりあえず落ち着くまで横にいてあげてくれ」とだけ言い残して白衣を翻した。


 静まり返った保健室で小さく息をつく。薬品棚のガラスに映る青空を見ながら、「もう誰もいないぞ」と隣の背中に声をかけた。

「覚えてるんだろ、お前。いつ思い出した」

 返事はなかった。ただ何かに縋ろうとするかのように、ソファの上で翔太の指が丸められた。

 一はそれに気づいて視線を逸らす。壁にはられたポスターの端が小さく剥がれ落ちていた。

「大丈夫さ。誰も殺しやしない」

 どこか呆れたような言葉に翔太が小さく息を吐いた。それは言葉のようで聞き取れず、一は「ん?」と耳を寄せる。

「鎌足、は、それでいいの······?」

 震える指が一の手に小さく触れた。零れた言葉は蚊の鳴くような声だった。しかしその意味を理解した途端、「あのなあ」と思わずため息がもれる。

「だから殺しただろ? 俺は指示された通りに殺した。でもそれはお前の話じゃない。蘇我入鹿そがのいるかの話だ。お前は鞍本翔太くらもとしょうた、金持ちなこと以外は普通の高校生だろ」

 翔太の手を押さえつければしばらくして震えが止まった。柔らかな前髪の隙間から覗く瞳が、微かに焦点を取り戻したのがわかる。

「俺の名前わかる?」

「鎌足」

「違う」

「······はじめ?」

「そう」

 視線の先で翔太がこちらを向いた。少し確かめるように一の顔を見つめたあと、「ごめん」と気まずそうに瞳を揺らして横にそらした。

「お前いつ思い出したんだ?」

「······去年。六月のテスト終わった頃」

 同じ質問を繰り返せば今度は返事が返ってきた。話を聞いたところ、昔の夢を見て思い出したらしい。

「なんか、ごめん付き合わせて。今までこんなこと無かったのに······」

「まあ線引きが上手そうだからなお前は。全く気づかなかった」

 今思い返せば、上宮と視線を合わせない彼に疑問は抱いていたのだ。厩戸皇子うまやどのみこの子である山背やましろを追い詰めたのは彼だ。それが気まずいのであろう。

 しかし逸らされる視線が記憶を取り戻した所以だとは分からなかった。普段一や智と過ごす翔太は自然そのものだった。まさか全て思い出していたとは。

「智、怖くないのか?」

「いいや、一緒にいて楽しいもん」

「まあ······それは同感だな」

 今頃彼はどうしているだろう。上宮を呼びに行って柳元とでも鉢合わせただろうか。故意ではないとはいえ、これだけの怪我をさせたのならば心が痛かろう。命に関わる別状はなかったが、翔太の首に巻かれた包帯にはまだじわじわと血が滲んでいた。柳元が救急車を呼んでくれたものの、到着までにはまだ数分かかる。

「······眠い」

 ふと翔太が疲れたように息を吐いた。重みに乗って零れた言葉に、「貧血なんだろ」と背中をさすってやる。

「お前ならちゃんと線引き出来るだろうが溜め込むなよ。お前は結局キャパオーバーして自虐に走る」

 翔太はヘラッと笑った。大丈夫だと言いたげな笑みだった。しかし、この男がこのように笑う時は大抵苦しい時なのだ。楽しい時には笑い、悲しい時には怒る智とは真逆で、この男は悲しい時にこそ笑顔をつくる。

 それは昔から変わらぬことで、生まれ変わった今でも同じらしい。こびり付いたさがにため息が出るが、結局は一とて同じようなものなのだろう。なんど輪廻転生しようが変わらぬところは変わらぬらしい。

 今更になって、外から吹き込むサッカー部の掛け声が耳をつついた。しかしその中に智はいない。

「智、父さんに怒られるかな」

 同じ音を拾った翔太が虚ろ気に長い睫毛を伏せる。翔太の父は、一のことも智のことも友人として承知している。それでも最愛の息子を傷付けたと知れば問答無用に眉をつり上げるかもしれない。

「怒られないといいな。一もフォローしてよ」

「図々しいな、まあフォローはしてやる」

 そんな言葉を交わして双方口を閉じた。何も変わらぬ放課後の色が音となって耳になだれ込む。どこか優しいフルートの奥で、救急車のサイレンが近づいた。












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