疑懼
翌日の朝も
しかし夏休みも間近に迫った今、悠長にしている暇はない。期末テストがやっと終わったかと思えば、次は学園祭への準備が始まるのだ。
高校に入って初めての学園祭である。テスト明けの開放感からか、皆が浮き立っていた。
「智くんいるー?」
突然教室の入り口から声が上がった。見れば、生徒会の
「何すか?」
「これ学園祭の時に使うネームプレートなんだけどさ、放課後までに数数えてもらえたりする?
返事を聞く間もなく彼はケラケラと去っていった。相変わらず厚かましい人だ。渡されたのは片手で持てるくらいのダンボール箱が二つ。まあこのくらいなら放課後までには数え終わるだろう。
箱をカシャカシャと振りながら机に戻り、後ろの席の一に事情を話す。すると、一と話していた
「んえーっと? カッターあるっけな」
乱雑にペンが詰め込まれた筆箱をまさぐると、智は一本のカッターナイフを取り出す。それをダンボール箱の隙間に差し込むと、薄いセロハンテープを滑るように切り裂いた。
「智ぃー」
二つ目の箱に手をかけたところで再び入口から声がかかった。他クラスの生徒がつかつかと歩み寄ってくるのが見えた。
「なんだよ急に」
中学校時代に、智と同じサッカー部に所属していた生徒だった。高校に入ってからは部活が変わったらしく、あまり話しているところを見かけなくなった。そもそも智とはあまり性格が合わないタイプである。それゆえに、智は困惑したように口を曲げた。
「お前カツアゲしたの?」
油の中に射られた火矢のようだった。何の覆いもない突飛な言葉が、肌を焼くようにジリジリと火を灯す。それは瞬く間に勢いを増し、智の形相を変えた。
「は?」
手に握られたカッターナイフの先がギリッとダンボール箱に傷を作る。薄い手の甲が赤く燃え、血潮がぐらりとうねりをあげた。
「なんでんなこというんだよ」
「だってネットで噂になってたから。あれお前だろ?」
その時、智が立ち上がって目の前の男を睨みつけた。それを受けて、「ほら、お前そういうとこあるだろ?」と相手の顔が軽蔑に染まる。そして智の身体を押しのけると、「もうやめろよな。俺らまで偏見されるんだけど」と言って揶揄うように身を翻した。
廊下へと消えてゆく彼の背に、「おい待てよ! もういっぺん言ってみろ!」と智が息巻く。しかしついに見えなくなった白シャツに、フーッと荒い息を吐いた。
「からかいに来ただけかよあの野郎······」
智の心に余裕などなかった。シンと静まり返った教室の中で、智は「クソっ」と机に拳を振り下ろす。しかし、その時だった。
パキンッ。
何かが弾けたような鋭い音がした。机に届かなかった智の手の下で、握られたカッターナイフが机の端にめり込んでいる。
智が身を固めるのもつかの間、耳鳴りがするほどの静寂を突き破り、「いやぁぁぁ!!」とけたたましい悲鳴が上がった。
折れて飛んだカッターナイフの刃がカラカラと転がった床に、ポタリと赤黒い雫が落ちる。辿れば、四方からこだまする悲鳴の中で、首筋を押さえた翔太が俯いていた。
まるでテレビの中の映像でも見ているかのようだった。翔太の白い指の間から、ポタポタと赤い筋が漏れては流れる。じわじわと広がる赤黒い染みが襟元の白を蝕んでいった。
「翔太?」
智の手からカッターが零れ床の上を転がった。呆然とする彼の視線の先では、翔太が机の上を見つめたまま目を見開いている。痛みよりも驚きが勝ったのだろう。彼は呻きひとつ漏らすことなく、ただただ乱れた息に唇を震わせていた。
智はやっと状況が飲み込めたのか、「ご、ごめ、大丈、ぶ······」と手を伸ばす。しかしその瞬間、智の手を片手で振り払うと、翔太は怯えたように後退りをした。
「······来ないで」
目の前で跳ね除けられた智の腕と恐怖に歪んだ翔太の顔に、一はまさかと眉を寄せた。そう思うや否や、弾かれたように智と翔太の間に入ってぎこちなく口の端をあげる。
「近づくな、智。驚いてるだけだ、大丈夫」
「で、でも保健室······」
「保健室には俺が連れてく。お前はカッター仕舞え。床に転がったままでまた誰か怪我したらどうする。あと上宮先生呼んでこい、いいな」
ざわめき出した教室の中で、智は気圧されたように頷いた。珍しく真っ青な顔を見て、まだ彼は大丈夫そうだと目を細める。そして勢いを失った智の背中をさすってやったあと、少し懸念するように翔太をつれて立ち上がった。
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