約束
遂に六月も最終日を迎えた。それはいつも通りの朝だった。まだ気だるげな朝日が照らす黒板。小テストの結果をぼやく声。何の変哲もない教室で、
「おはよう。出席とるぞ」
そこへ
名簿を開いた酒井は一人一人の名を呼んだ。皆が手を止めて呆けたような顔をする。いつもは健康観察など省くくせに、今日はやけに丁寧じゃないか。彼に名前を呼ばれたのは初回の出席確認以来だった。
昇った朝日が傾く頃、最後のホームルームに現れた酒井は何故かスーツを脇に抱えていた。皆が首を傾げれば、彼は「これか?」と恥ずかしげな笑みをつくる。
「終わりくらいビシッと決めようと思ったんだがな。柄じゃないから脱いでやった」
シワのよったシャツが眩しく西日に映えている。寄れたネクタイがどこか愛らしく見えて、一はくすりと笑ってしまった。
「お、一が笑った。珍しい」
酒井が嬉しそうに茶々を入れる。こちらこそ柄でもないことをした。反射的に口を曲げれば、クラスの皆がどっと笑った。振り返った智がニヤニヤと目を細めている。隣の翔太も苦しそうに肩を揺らしていた。
なんだか寂しくなった。感受性には乏しかったはずだが、どこか心に穴が空いている。やはり智に似てきたのだろうか。こんなにも笑顔が溢れているのに、小さな喪失感が胸を蝕んだ。
そこからは酒井とたわいも無い話をした。たった三ヶ月間の担任だった。それでもどこか情が湧くのか、皆がくだらない話に花を咲かせた。
酒井は良い先生だったと思う。いつも気だるげでまともに会話もしない。しかしこのクラスを嫌う素振りは見せなかった。それだけで十分だった。たった
「酒ちゃんさ、聞いてくれる? お願いがあるんだけど」
終業の鐘が鳴らんとする頃、智がぽつりと呟いた。しんと空気が静まる中、酒井は「ん」と口をゆるめる。
「学園祭来てよ、再来年の学園祭。酒ちゃんを招待しようと思ってチケット手に入れたんだ」
差し出された手のひらに一枚の紙が乗っていた。ついさっき破ったようなノートの切れ端。そこには「学園祭前売りチケット」とサインペンの文字が踊っている。チケット自体は智が咄嗟に作ったものだが、話をもちかけたのは翔太だった。
二年後、皆が三年生になる頃、酒井は教員ではない一般人だ。ならば一般人として学校に来てもらえばいい。そのためには生徒会の本領を示す学園祭がぴったりだろう。
そんな翔太のアイデアが一枚のチケットになった。智、一、翔太の三人だけで勝手に進めた話だ。智を見つめる周りの生徒も酒井とそっくりな顔で口を開けていた。
「······」
酒井が柔らかくチケットを受け取る。くしゃくしゃの紙に綴られたたったの十文字に、酒井の顔が脆く歪む。次の瞬間零れ落ちた雫が夕日を包んで教卓に落ちた。弾けた
何も言えない酒井に対し、智がふふんと顎を上げた。してやったりと胸を張る彼に、酒井はやっとの事で笑みを向ける。伸ばされた右手が髪を掬って智の頭をくしゃりと撫でた。無骨な手から伝わる温もりを受け、智が見せた白い歯は輝かしかった。
「······ありがとう。必ず、必ず来るからな。二年後、楽しみにしてる。三ヶ月間ありがとう」
そこからは皆で酒井の周りを囲んだ。まるで卒業式のようだった。もう緑が茂ったと言うのに窓の外に桜の花びらが舞った気がした。
下校の鐘が夕空に響く。吸い込まれるような快晴の下、一人の教師が学校を去った。
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